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瞑想:家族について

こんにちは、Space-radです。

 

先日の瞑想の続きです。

今回は家族関係について出てきました。

 

 

 

瞑想に入ってすぐ、とても悲しくなった。

何故だろう?と思っていると、悲しみはやはり左から来ている。

その内、涙が溢れて止まらなくなった。

悲しみの根幹にあるのは、母親が亡くなった後の強い喪失感だと思い当たった。

幼い時から、ずっと母親を助けなければという使命感が強かった。

しかし、母もまた子どもを育てなければ、という使命感で

一杯一杯だったのではないか?と思った。

母が亡くなる数年前に和解できて、とても嬉しかった。

本当はもっと話したかったが、別離の時は思ったより早く、あっと言う間だった。

きちんとお別れができなかった。

それがとても悲しく、新たに家族を作るのが怖くなってしまった。

また、母の葬式の時は、妹を支えるので手一杯で、自分が悲しむ暇がなかった。

母とは和解できたが、妹の身勝手さには、未だにうんざりしている。

 

 

 

瞑想した日に見た夢

子どもの私がいる。

その横に誰か知らない女の人がいて、その人は私の母にとても怒っていた。

あなた(私の母)はとても身勝手で、すぐ感情的になり、

あなたの子どもが、あなたの母親代わりになっていた。

あなたは、ちっとも子どもを大事にせず、自分の我がままのために、

子どもを犠牲にするようなひどい母親だったと、私の母親に向かって説教している。

母は、わざと聞こえていない振りをして、知らん顔を決め込んでいた。

それを見た幼い私は、

「ああ、そうだ。この人(母)は、昔から都合の悪い事は見ないふりをして、

子どもの私の意見にひとつも耳を貸さない人だった」と、

幼い私はとても悲しくなった。

(たとえば、母はルールなどを平気で破り人に迷惑をかけるような所があった。

子どもの私が注意すると、「子どものくせに生意気だ」などと言う人だった。)

 

 目が覚めてから、自分はもしかしたら、母親を美化しすぎているのではないか、

と思った。

家族との距離感は、自分のなかでずっと解決できていない問題である。

親子だから、兄弟姉妹だから、という理由で、何でも甘えて我がままを

言っていい存在ではない。

「親しき仲にも礼儀」を作れない人とは、付き合いたくないな、と強く思った。

 

 

 

瞑想を始めると、左の存在感が強い。

重い、悲しい、不安などの感情や感覚はない。

先日に比べると、左はだいぶ軽くなっている。

しかし、少し怒っているようだった。

本当はもっとばりばり働きたいのに、体がついて来ないのに怒っている。

自分は男なので、結婚して家庭に入ったり、男性を支えるなんて、

そんな事はしたくない。

家族を作るのに、なぜ結婚しなくてはならないのか。

自分は男とも女とも結婚したくない、ととても怒っていた。

右側からは、何も感じない。

とても静か。

結婚について聞いてみたが、返事はない。

「どうでもいい」という印象を受けた。