なんでもよし。

最早、何でも良い。

流行に左右されないものが欲しい。

youtubeで、「老人Z」の動画(全編)を見つけた。

 

私は、「AKIRA」は一度も見たことがないが、

老人Z」は子どもの頃に大好きだったアニメのひとつである。

 

大人になってもう一度見てみたが、やはり面白かった。

 

それを見た後に、「プロジェクトA子」というアニメがお勧めに上がってきたので、

「そういえば、見たことないな」と思い、見てみた。

 

しかし、20分見た所で、耐えられなくなって見るのをやめた。

 

制作側はこの作品を通して、視聴者に対して何かを伝えたい、

という強い情熱や感情は、特に何もなさそうだったからだ。

 

 

 

ところで、最近になって、自分が着たいと思う服の基準が、

非常にはっきりとしてきた。

 

それは、流行に左右されない、かつ自分に似合う服である。

 

今日買った服が、「流行の最先端」をいくものであるとするならば、

それはいずれ「時代遅れ」と呼ばれるようになる。

 

今年堂々と着れたその服は、

もしかしたら、来年には、着るのを躊躇してしまうような

ちょっと古臭いファッションになるかもしれないのだ。

 

そして、どのような作品やデザインに対しても、

世の中に出たものは、「新しいもの」から「古いもの」へと、

否応なく変性していくものであるし、

その中でも、長い年月に耐え忍ぶ強さをもったものだけが、

「古典」や「伝統」という称号を与えられるのではないか、と思う。

 

そうすると、ちょっと矛盾するような主張になるが、

「古臭い」と言われても、自分の好きなものを着続けるという

勇気と選択は、とても偉大だと言えるかもしれない。

 

服だけに限らず、様々なデザイン、価値観、表現に、

「これは、明日も生き残るだけの強さをもつものであろうか?」という

視点で見ると、世界はまるで違うように見えて来る。

 

だからこそ、「本当に好きなもの」だけを選ぶという行為は、

五感をギリギリまで研ぎ澄まし、自分自身に耳を傾けなければ、

「好きなものが分からない」という事になってしまうのかもしれない。

 

そういう視点で世の中を見ると、本当に自分に必要なものは、

実はそんなに多くはない、という事に気付く。

 

 

 

それでは、「流行の最先端」を創り出す事には、

何の意味もないか、というと、そんなに単純な話ではない。

 

「古典」や「伝統」という玉座に座るには、

まず「新しく生まれ出て来る」という事が絶対条件となる。

 

「新しい」という所から「古臭い」を通り過ぎ、

最終的に「古典」や「伝統」になる。

 

「古典」や「伝統」になれる「最先端」には、

「どんなに時代が移り変わっても、絶対に変わらないもの」を、

「誰も見たことがないような、新しい方法で表現する」事が、

最も重要な事であると思う。

 

そのためには、「新しさ」や「古さ」というものをよく観察する必要がある。

 

外面の美しさや可愛らしさだけに捉われる人は、

この視点がない。

 

だから、「ステレオタイプな美しさ」以外の美しさを感じる事ができないし、

物事を一面的かつ断片的にしか理解できない。

 

一方向でしか物事を捉えられないので、何事に対しても、

平気で言い切るようになる。

 

このような人は、どの時代にも存在し、

逆に言えば、「成長途中の人」と言い換える事ができる。

 

 

 

 

多様さとは、即ち曖昧さの事ではなかろうか、

と、最近になってそんな事を考えたりもする。