なんでもよし。

最早、何でも良い。

生きているけど、生きていない。

最近、「ですます」調の文体をやめてみたのですが、

改めて自分で読み返してみて、「どうにも硬いなあ」と思いました。

 

これは、昔からそうなのですが、何も考えずに物を書くと、

どうにもドライで冷めた印象の文を書きがちです。

 

「ですます」をやめた主な理由は、文章が長くなり、

結果として、手が痛くなるからです。

 

手を使い過ぎると、力が入らなくなって、ペットボトルの蓋を開け辛い、

という事が、ここ数年で頻繁に起きています。

 

整体の先生に聞いてみると、使いすぎると、手の骨のバランスが崩れ、

痛みや脱力に繋がる、という事でした。

 

 

 

ですので、ブログのネタはあっても、手が痛いので、何となく書かない、

という日々が続いていました。

 

そのブログのネタの殆ども、忘れてしまいました。

 

この記事を最初に書こうと思った時に、

「生きながら死んでいる人」とタイトルをつけて保存しておいたのですが、

それも一体、何について書こうとしていたのか、すっかり忘れてしまいました。

 

ですので、自我についてふと思いついた事を、少し書こうと思います。

 

 

 

以前、意識というのは、

パソコンのキーボードやテレビゲームのコントローラーに

似ているようだ、という記事を書きました。

 

例えば、このキーボードやコントローラーのボタンに、

「自我」というシステムを植え付けたら、どういう事になるのだろうか?

と、我ながら随分変な事を思いました。

 

恐らく、ボタン達は、自分達の意思で、

画面内に文字を打ち込んだり、キャラクターを動かそうと、躍起になるでしょう。

 

しかし、そんな事はできません。

 

ボタンは自力で出っ張ったり、引っ込んだりはできず、

人間が操作しないと、画面内には何も起こりません。

 

それは、ボタン達の努力や才能不足のせいではなく、

最初からそんな事はできない仕様になっているからです。

 

ドラえもんのび太が、

ドラゴンボールベジータみたいになりたいと願った所で、

のび太が原稿用紙から飛び出して、藤子先生をやっつけて、

代わりに「のび太物語」を描く、なんて事はできません。

(作者は亡くなられてますが、他に何も思いつかなかったので、

勘弁してください)

 

この二次元上の世界を次元をひとつ上げて、

三次元に置き換えて考えると、人間が神に反逆する、みたいな話になります。

 

結局、ボタンものび太も人間も何かが起きるに任せるしかないのです。

 

では、なぜ自我なんてものが、人間にはくっついてるんでしょうか?

 

キーボードやコントローラーのボタンは、

自分で自分を動かそうと、努力したり、奮起したり、

嘆いたりする事はありません。

 

自我どころか、感情も感覚もないからです。

 

押されて、内部の精密機器に何かのデータが入力されても、

画面(ビジョン)に変化が生じるだけで、ボタン自身には別に何も起こりません。

 

しかし、人間は何かが起きたり変化が生じると、

喜んだり、悲しんだり、腹を立てたりします。

 

これは一体何なんでしょうか?

 

 

 

ここまで、書くに任せて、つらつらと書いてきましたが、

別にこれといって、答えがあるわけでもないのです。

 

ところで、最初に書こうと思っていたのは、

確かお金の話だったことを思い出しましたが、

その時には、どんなに書こうとしても、手が痛くて書くどころではなく、

音声配信でもするか、と思ったものの、

それも色々な障害があって、実際にはできずじまいでした。

 

しかし、これを書いている時は、不思議と手の痛みはあまり感じませんでした。

 

不思議です。