なんでもよし。

最早、何でも良い。

「何もしない」事の大切さ

久々に高齢者施設で、治療に対して変にやる気のある、

面倒臭いタイプの医師が新しく来た。

 

 

利用者が痰で溺れて、大変な事になってるのに、点滴を何本も出してみたり、

(点滴の量が多すぎる→血液量が増える→老化した心臓では増えた血液量を

 全身に循環させるだけの力がない→心臓内部に血液が貯留する

 →貯留した血液の水分が肺に染み出し、更に痰が増えて呼吸が悪化する、

 又は、心臓内部に貯留した血液が淀み、血栓ができ、それが心臓近くにある

 脳への血管へと流れ、脳梗塞を起こす)

膀胱に尿が溜まっていると言って、チューブを留置したり、

(入れっぱなしにするより、

必要な時に、一回一回チューブを入れて排尿を促す方が、

体の負担は少ないと思う)

睡眠薬が効きすぎて、こんなに体調が悪くなるなら、

もっと早く薬止めてれば良かったーと嘆いたりしていた。

(先月の20日頃に、活気もないし、食事量も減ってるから、

睡眠薬の相談した方がいいと思う、と施設には報告したよ)

 

その医師が診察をしながら、

施設の介護スタッフに、某回転寿司屋のメニューについて

不満を述べているのを聞いた時、思わず、

「後は私がやるから、もう帰っていいよ、ご苦労さん」と言いたくなった。

 

見た所、若い先生であるので、

高齢者施設での仕事の仕方が分からないのかもしれないが、

こういう所には、もっとこなれた感じのあまり積極的でない医師の方が、

実は利用者にとっては体の負担が少なくて済む。

 

テレビドラマでやってるような「救命救急24時」みたいな、

「頭が急性期」の医師や看護師が高齢者施設に来ると、

やたらとスパゲティ症候群みたいにしたがるので、正直困る。

 

 

 

 

 

この医師に限らず、現代に生きていると、どうしても

「何かをする」事に重きを置きがちになり、

「何もしない」事に焦りを感じてしまうのは、

日常茶飯事なのかもしれない。

 

だからこそ、普段から、

あえて「何もしない」という選択の余地を残しておかないと、

ものすごい泥沼にはまってしまう…という事もありえるのではないか、

と改めて考えさせられた。