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顧客のニーズとキラキラ系起業家の欲求

こんにちは、Space-radです。

 

このブログの更新は、1回/週くらいと決めているのですが、

何か思いついた事があれば、メモ代わりにどんどん書いているので、

中途半端な下描き記事で一杯です。

 

 さて、今回は「顧客のニーズとキラキラ系起業家の欲求」についてです。

 

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医療や福祉に於いて、専門家がカウンセリングや自立支援を行う場合、

その主役はクライアント・又はそのご家族(のニーズ)です。

 

医療・福祉系以外の仕事でも同じですよね。

 

主役は顧客(のニーズ)。

 

しかし、

俗にいう「キラキラ系」という人達は、

もっと違う所を見ているのではないか?

と改めて思い当たりました。

 

SNSを見ると、キラキラ系の人達が色々とアピールしています。

でも、いつも思うんです。

 

この人たちは、起業したいの?

お茶会したいの?

 

 

 

 

「楽しそうだけど、ちょっと目的が良く分からない人達」

私のキラキラ系への印象はそんな感じでした。

 

そして、たまたま下記のような記事を見付け、

とても納得してしまいました。

 

takehisayuriko.tokyo

 

一部引用させていただきます。

 

キラスピビジネスというのは、内容に違いがあれど、

ビジネスモデルとしては「タレント業を目指すことと同じ」

 

要するに、

スピリチュアル・ヒーラーやセラピストを

名乗っているのに、顧客のニーズではなく、

自分自身の欲求にフォーカスしてしまっている

という事です。

 

 

臨床心理士という職業が何故国から認定され、法律が整備されているのか。

答えは簡単です。

 

それは日本政府が、国民が文化的で健康的な生活を送るために、

心の健康が必須だと認めているからです。

 

翻って、スピリチュアルには正式な認定がありません。

それは、日本政府が、国民が文化的で健康的な生活を送るために、

スピは必須ではないと考えているからです。

 

こう書くと

「お前は国家の犬か!自分の意志はないのか!」

という人が必ずおられる事でしょう。

 

だけど、スピリチュアル系に国家の後ろ盾がない、

というのは、結局の所、民意が求めてないから、

ともいえるのではないでしょうか?

 

国家といえども、

民意に逆らう事はできないのです。

 

日本政府は、国民の命と健康を保障する義務があります。

 

いくら、内閣総理大臣やその取り巻きの人々が「私達が日本国です」と、

世界に訴え出ても、「国民」の存在がなければ、

国家としての体を成しません。

 

だから、コロナで国民の生活がいよいよ困窮するとなって、

やっと10万円の給付金を支給すると言い出したのです。

 

そうです、「国家」は「国民」が存在しなければ成り立たないのですから。

 

 

 

これは、カウンセラーやセラピストにもいえる事です。

 

カウンセラーをカウンセラー足らしめて

いるもの、

セラピストをセラピスト足らしめて

いるものは、

「クライアント」の存在です。

 

ですから、「クライアント」の存在を疎かにすれば、

ヒーラーやセラピストの存在も軽い存在になっていきます。

 

 

 

となると、

「キラキラ系は、何故自分の欲求にフォーカスしてしまっているのか?」

という疑問が生まれます。

 

キラキラという言葉の裏に、私が感じるのは、

「イケてない私を認められない」

という苦悩です。

 

みなさんは、ご自身が最高にイケてる!と思ってますか?

イケてる自分って、どんな自分ですか?

イケてる!と思う事と、イケてない!と思う事、

どっちがイケてないと思いますか?

 

因みに私は、イケてようがイケてまいが、どうでもいいと思ってます。

どっちの自分も、私ですから。

 

勿論、今日はイケてないなあ~と感じれば、落ち込みます。

しかし、

落ち込む事とそれを否定する事は似て非なるものです。

 

 

それにしても、「イケてる!」の定義なんて人それぞれだと思いませんか?

とても、曖昧で個人的な感覚のように思うのです。

 

それでもキラキラの人達が、より自分を輝かせようとするのは、

「自立(律)できる自分を信じられない」

という無価値感が根底にあるからではないでしょうか?

 

自分を信じられない、イケてない、と強烈に思うからこそ、

そんな自分でも、何とか肯定したくてキラキラさせているように

私には見えるのです。

 

承認欲求が強い、と言われている彼らですが、

本当に認めてほしいのは、案外自分自身になのかもしれまん。

 

そう思うと、結局の所、みんな自分なりに努力して生きているのかなあ・・・

なんて、しんみりしたりもするのです。