なんでもよし。

最早、何でも良い。

シンデレラなんかになりたくない。

こんにちは、Space-radです。

今回は「結婚」がテーマです。

 

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我が国では、「少子化と晩(未)婚化」が叫ばれて久しいですが、

みなさんは「結婚と家族」について、どのようにお考えでしょうか?

 

ちなみに私も未婚です。

ついでに、チンプイは1回も見たことないです。

 

私が結婚に関して思う問題点は、以下の通りです。

①恋愛⇒結婚に至るまでの、適当なロールモデルがなく、

 かつ結婚に対する定義・目的が曖昧

②性別に対する考え方の変化

 

 

①恋愛⇒結婚に至るまでの適当なロールモデルがなく、

かつ結婚の目的・定義が曖昧。

 

私の母親は、私が小さい内から

「結婚だけはするな、手に職を持て」

と言い続けているような人でした。

 

そして、私の周りの既婚女性もパートナーへの愚痴が多く、

(実際にDV受けてる人もいました)

「結婚はしなくていい、でも機会があったら出産はしてみるといいよ」

「看護師は稼げる職業だから大丈夫。結婚なんて必要ないよ」

という人が圧倒的多数でした。

 

 

そして、私の頭の中には

結婚=お金と出産のために

   死ぬ程不幸になる黒魔術

という訳の分からない方程式が、いつの間にか出来上がりました。

 

 

しかし、最近になってふと思ったのです。

「いい加減、仲間は欲しい。

でも、騎士やプリンスと結婚はしたくない」と。

 

日本の少女漫画や恋愛ドラマには、

「騎士とプリンセス」或いは、

「プリンスとプリンセス」

の関係性に重点を置いた恋愛物語が、多すぎる気がします。

 

日本のステレオタイプなシンデレラ的恋愛物語は、

プリンス(騎士)とプリンセスが結ばれるまでが結論で、

その先(即位式)がないのです。

 

 

 

戦前までの日本は「村社会」がまだ機能していて、

そこで男女の恋愛や結婚についての手引きがありました。

 

しかし、戦後日本では恐ろしいスピードで近代化が進み、

核家族が激増。

 

「村社会」が急激に機能不全に陥り、

かといって代替えとなるシステムを確立できなかった日本社会は、

「晩(未)婚化と少子化」という問題を抱えます。

 

「村社会」が担っていた

「共同体での恋愛の手引きや夫婦間の在り方」のロールモデルが、

「国家」・或いは「個人」レベルの問題へと

急速に拡大・縮小していった結果ではないでしょうか。

 

E・フロムの「愛するということ」のような

日本人向けの新しい哲学が必要なように思うのです。

 

omoinoha.exblog.jp

 

話を戻して、騎士或いはプリンス、プリンセスといった人達は、

守護する者とその後継を期待された者たちに過ぎません。

 

彼らには、

国家(家庭)を統治する権限と責任が

ないのです。

 

「シンデレラ」で、何故王子は彼女を選んだのでしょうか?

 

もし、シンデレラの生まれが高貴なものであったとしても、

育ちは平民以下です。

 

シンデレラに王室での振る舞いや政治・権力への知識が備わっている、

とは考えにくいのです。

 

もし、私が王子だったら、シンデレラを選ぶ理由は1つです。

 

無知故に、

王家の思惑通りになりそうだから。

 

そんな理由で花嫁を選ぶ国家なんて、この先の繁栄が期待できそうですか?

 

率直に述べると、私はイヤです。

 

 

 

もうひとつ気になる事があります。

 

それは、「大人の恋愛・結婚」というと、

何故かみんな、情緒感たっぷりのやや後ろ暗い、

演歌的世界観を前面に押し出します。

 

王と女王(大人)の恋愛・結婚の私的イメージは、

太陽の下で堂々と、国民に祝福されるもの

なのではないかと、私は思うのです。

 

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どうして、大人の恋愛というと、

そういう演歌的世界観ばっかりになってしまうのでしょうか?

 

 

 

 

 ②性別に関する考え方の変化

 

そこへ持ってきて、

現代では性別の問題という点も加わってきます。

 

 

現実に看護師として働いていると、高齢者が自分の性別をどう捉えているのか?

が垣間見える瞬間があります。

 

結論だけ書くと、高齢者にとっての性とは

女性にとっての女性性=出産を主とした役割

(強い肉体的縛り(生理・出産)がある代わり、解放(閉経)後は自由になる)

男性にとっての男性性=自己を形成するアイデンティティ

(強い肉体的縛りがないため、性別や社会に縛られる)

と、両者の間で大きな違いを強く感じるのです。

 

これは良い・悪いといった単純な話ではなく、

時代的な背景を背負った上での適切な役割分担だと考えます。

 

しかし、現代ではこの定義が意味を成さなくなってきました。

 

 

特に女性。

 

今までは、ただ家庭内で役割に徹すれば良かったのでしょうが、

家事、子育て、介護に加え、仕事(しかもフルタイム)まで

こなさなくてはならなくなっています。

 

つまり、男女がお互いに協働する必要性が出てきていると感じるのです。

 

ですから、「家族関係を築く」という事は、「同士」でなくてはならないため、

お互いを理解した上でのコミュニケーション

が重要になってきます。

 

自分(達)と違うからという理由だけで関わらない、というのは

もう時代遅れなのではないかと思うのです。

 

何がどう違うのかを理解した上で、関わる相手を選ぶ

事が必要になってくると思われます。

 

そして、社会に出ていく、という事は

自らのアイデンティティを確立しなくてはならない、

という事だとも考えています。

 

仕事と家庭を持つにあたって、

自分が何者なのかを心得る事が大事なのでは?

というのが私の考えです。

 

 

 

これは個人的な話なのですが、私が同性の友達や知り合いを作ると、

ある一定の確率で、私が男性的役割を担う事が多いです。

 

今の職場でも、

一生懸命夫に話をする妻=上司(女性)

妻の話を適当に聞き流す夫=私

という精神的疑似夫婦関係が出来上がっています。

 

ある方が、「看護師」という職業は男性性優位じゃないと務まらない、

と仰っていましたが、正にその通りだと思います。

 

子ども(患者)を自立させる父親的役割が担えない人には、

「看護師」はしんどい職業だと思います。

 

私が生まれ育った家庭環境は、

女性性の非常に強い家族員で構成された、母子家庭でした。

 

ですから、男性性強めの私は、家庭内に於いて、とても浮いた存在でした。

 

しかし、結婚となると、別に私は同性愛者ではないので、

男性との結婚を考えます。

 

ここで私は、今までの古い女性的役割を担わなければならない、

と無意識的に捉われていたので、非常に強い混乱を引き起こしていました。

 

しかし、それも「自分」という人間をより深く理解できるようになると、

徐々に安定してきました。

 

 

 

 まとめると、これからの時代は

性別を踏まえた上で、

自分とは何者なのか?を

確立していく必要がある

という事です。