もし、「チャネリングできますか?」と誰かに聞かれたら、
勿論、「そんな事はできません」と答えます。
しかし、「チャネリングができる」という人にとっては、
それは、お箸を使いこなしたり、自転車を乗りこなすような事だ、
という風には感じているに違いないのです。
ですが、それにはとても大きな問題が浮上します。
それは、「誰が」「どうやって」「チャネリングできているかどうか」を
客観的事実として評価するのか?という事です。
もし仮に、
チャネリングできているかどうかを評価できる存在があるとするならば、
それは、所謂「高次の存在」とか「神」とか言われているものでしょう。
しかし、残念ながら、多くの人々は、五感を大きく超えた所の存在を、
意図的かつ意識的に認知するのは、困難を極めます。
ですから、「高次の存在」がいくら「この人はチャネリングができる」と
声高に宣言しても、多くの人間には、その声は聞こえないのです。
また、それを宣言している存在を、「高次の存在」だと
現実に裏付ける事は、誰にもできません。
結果として、「チャネリングができている」かどうかは、
極めて個人的かつ主観的な要素が100%占める事となります。
ところで、先だって、「意識とは何か?」という動画を観ました。
その動画で一番驚いたのは、
「意識は、実は何の決定もせず、無意識が色々な事を決断しているのを
ただ傍観しているだけである」という事です。
しかし、後で良く考えてみると、
そんな事はお釈迦様が随分昔に言っている事であり、
むしろこの「無意識」の領域は、我々アジア人が得意とする所です。
ただ、言葉として説明されると、結構妙な気分になるものです。
「何も考えずに決めている」のですから。
そこで、この「意識」(脳)とは、本当に一体何なのだろうか?と
考えてみると、もしかしたら、ファミコンのコントローラーや
PCのキーボードみたいなもんなのかな…と思いました。
うまく言えないのですが、画面の外(自分の内面)には、
テレビ(五感)が知らない自分がいて、
コントローラーやキーボード(意識)を操作して、
「私」という匿名のキャラクターを作ってるだけなのかもしれません。
さて、それでは、
意識がコントローラーやキーボードみたいなものだと仮定して、
その上で、チャネリングや霊視ができているとかいないとかいう話は、
一体全体、どういう事なのでしょうか?
そのテレビに映っているもの(五感が感じているもの)の正体は、
何なのでしょうか?
もっと卑近な例を出すと、私たちは誰かを妬んだり嫉んだりします。
その嫉妬の感情を呼び起こす現象やものの中身は、一体何だと思いますか?
現象は現象として起こり、存在は存在としてのみ在るだけですが、
本当にそうでしょうか?
実はそこでは、何も起こっておらず、何も存在していないかもしれません。
その現象や存在の中身を知らずして、私達は時に激しい嫉妬の炎に焼かれます。
「チャネリング」している対象の中身を、
私達は、本当に理解できているのでしょうか?
そういう意味合いでは、
人は皆、何かを「チャネリング」しているのかもしれませんね。