なんでもよし。

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虚構の中で虚構に生きる。

こんにちは、Space-radです。

 

今日は職場で同僚と話をしていて、ふと思った事を書いていきます。

 

以前勤めていた病院で終末期の患者さんのご家族様に、

このように聞かれた事があります。

 

「いつ、死にますか?」

 

 

 

勿論、そんな事は神様にしか分からないのですが、

それでも「医療」という物差しを使って、

可能な範囲で言語化しなくてはならない場面もあります。

 

その予測が近い範囲で当たる事もあれば、大きく外れてしまう事もあります。

 

それでも、到底数値化できないような事を「情報やデータ」という根拠を元に、

何らかの数字を弾き出さねばならない時もあります。

 

そして、それをあまり意味がないと言ってしまうのであれば、

人生の大半は意味がない、と言っているようなものだとも思うのです。

 

実際、看護診断の項目のひとつ、「価値・信念パターン」には、

「道徳的苦悩」や「信仰心障害」「霊的苦悩」という項目があります。

それこそ、目に見えないものを言語化しようとしているのですから、

他者から見たらこんなに滑稽でおかしな事もないでしょう。

 

そして、大抵の場合、この価値・信念パターンは現場においても、

スルーされがちです。

やはり、それだけ言語化が困難な項目なのです。

 

それでは、自分の価値や信念を言語化するのは無駄でしょうか?

 

こうだと思った事や感じた事を言葉にした瞬間に、

何となく噓っぱちのように感じる事はありませんか?

 

では、それは嘘の気持ちだったのでしょうか?

どのような言葉にすれば、しっくりくるのでしょうか?

 

言葉にならない事は、人生においてたくさんあります。

そんな事は多分、皆分かってると思うのです。

 

100%の臨場感や心情を完璧に表現する事はできません。

私達は外界で起こった出来事を、

自分の肉体(五感)を通してしか認知できないのです。

他人の五感がどうかなんて事は知る由もありません。

 

だから、言葉にするのです。

他人の見えている世界を少しでも理解するきっかけとなるように。

 

 

 

人生という物語を生きるに辺り、その終幕を受け入れられずに悩むのは、

その人自身と非常に近しい関係にあった人です。

 

本人は亡くなってしまわれた後、どうなるのかは分かりません。

しかし、残された者はまだ生きていかねばなりません。

 

その大事な人(或いは憎んだ人)のいなくなった世界の物語を、

その後もずっと作らねばなりません。

そして、それは「言葉」として語られないままであれば、

その残された人の人生の終焉で解決されなかった問題、

或いは未処理の感情として一気に表面化する事があります。

 

虚構と理解しながら虚構を語らねば、

深層に沈んだ感情や思いは、世間はなかった事と認知します。

 

悲しみや悲哀は、表現しなければ誰にも伝わりません。

 

 

 

そのために言葉があります。

全てを完璧に言語化できる世界があったとしたら、

それは多分、私達とは全く別の世界線で生きている人たちのように、

私は感じます。

 

それでも、言葉にしなければならない事もあるのです。

私達はこの肉体を脱ぎ捨てて、正しく世界を見る事ができないのですから。