信仰心というものは、基本的に目に見えないものですが、
それを目に見える形で測る、客観的指標があると仮定するならば、
お布施や寄進の額、その宗教に対する様々な知識や見解の深さ、
とするのが、最も手っ取り早いでしょう。
事実、平安時代までは仏教は貴族社会のみで発展していたもので、
それを民衆に広めたのが、親鸞上人です。
高野山から下山して、私はある事に気付きました。
それは、日常生活の中で「真善美」を感じられなかった時、
非常に大きなストレスを感じているという事です。
私が泊まった宿坊には、一人若い女性従業員の方がおられ、
その方にお世話して頂いたのですが、「真善美」というものが全く感じられず、
非常に大きなストレスを感じていました。
言葉遣いや所作は大変美しいのですが、
その完璧な振る舞いや言動の裏に、他人に対する思いやりはなく、
ただ、ご自分の所作や振る舞いの美しさに、宿泊客や職場の視線を集めたい、
賛美されたい、という内面が端々に滲みでており、
あまつさえ、周囲の者を小馬鹿にするような所も見え隠れしておられ、
内心、非常に辟易としておりました。
これがプロのホテルや旅館の従業員の方であれば、
このような心情があったとしても、それをお客さんに悟られないよう、
もっと上手に隠して演じ切られた事でしょう。
(事実、私が時折利用するホテルには、このようなスタッフはおられません。)
お若い方でしたので、仕方のない所はあるかと思いますが、
それでも、チェックアウトの日に、その女性の姿が見えなかった事に、
心底ほっとした記憶があります。
心は、目に見えるものではありませんが、
しかし、お布施をしたり興味を持って特定の宗教の見識を広める事は、
決して悪い事ではありません。
「他人に対する思いやり」も、目に見えるものではありません。
しかし、ちょっとした贈り物や言葉をかける事で、
それを表現する事はできます。
あくまでも表現したいのは、「思いやり」です。
それでは、その宿坊の女性は、美しい所作や言葉を通して、
周囲に何を表現していたのでしょうか?
美しい所作が、その人自身の心の美しさを表しているとするならば、
体裁だけ整えればよい、という話になりはしないでしょうか?
例えば、体裁だけを美しく整えた人を見て、それを美しいと感じるのならば、
外面だけが全て、という世界に生きる事になるのでしょうか?
いうなれば、それは過剰包装された、
中身のないプレゼントのようなものではないでしょうか。
その逆に、内面が美しければ、それを外の世界に向かって自ら表現しなくても、
伝わるのでしょうか?
「中庸」という言葉がありますが、
中庸もいき過ぎれば、当たり障りのない無難で退屈な世界に
なってしまいます。
私は、このような事に気付いてから、
思いやりのない人に、以前ほど強い感情を持つ事が少なくなりました。
箱の中身がない、と怒った所で意味はないと思ったからです。
疲れてきたので、この文章はここで一旦締めますが、
「美意識」という事に関しては、もう少し考察していってもよさそうです。