こんにちは、Space-radです。
最近、糖尿病の高齢者さん達を見ていて、感じた事があります。
それは、
「この人たちは、食べる事によって、
自分の生死と向き合う大事な時間を無駄に浪費している」
という事です。
「老年期」は、人生において「統合」という最も大事な発達課題があります。
私自身はこの老年期における発達課題を、
「自分の人生を振り返り、
色々あったけど自分の人生はこれで良かったんだと肯定的に受け入れ、
そしてその先にある死に向き合い、残される者に対して自分の死を表現していく」
作業だと解釈しています。
しかし、高齢の糖尿病患者さんを見ていて、
現代社会における「自分の人生を肯定的に受け入れていく」事への
難しさをひしひしと感じています。
現代における「素晴らしい人生」とは、
お金があり、愛する人がいて、たくさんの友人に囲まれ、
どんな軋轢があったにせよ、全ての人間関係は幸福の内に幕を閉じる、
という集合意識みたいなものが存在するのでないか、と私は度々感じます。
でも、それは自分ではない誰かが掲げた物語に過ぎません。
そんなものは、死の前には無力です。
人生の終焉は、それまでの積み重ねが結果として一気に表出し、
自分でそのピリオドを打たなけばならないのではないか、
とそんな事をすごく考えるのです。
私は、彼らの食べ方を見ている時、その背景の恐怖や孤独を強く感じます。
積み重ねてこなかったかもしれない、
その結果を一人で見なければならない恐怖を。
だから、食べる事で自分の時間を浪費しているのではないでしょうか。
しかし、それでは決して幸福なピリオドは打てません。
最近、私はこんな風に思うのです。
生きる意味を探すのではなく、自分の生死を表現する事こそが、
人生ではないか、と。