なんでもよし。

最早、何でも良い。

父とのトラウマを刺激する人。

こんにちは、Space-radです。

 

前回のブログ記事を読み返してみて、

我ながら疲れてたのかな~と思ってしまいました。

 

記事を書いている時には気付いていなかったのですが、

一昨日、そのブログ記事内の友人と話していて、

自分でも気付いていないトラウマを指摘されました。

 

それは、父との事です。

 

 

私は、一年程前、ある瞑想のコミュニティに属していました。

 

ですが、そのコミュニティは、一年弱でやめてしまいました。

 

理由は、話についていけないのと、一緒にいると疲労感しか

残らない人が多かったからです。

 

ですから、最初に彼らがレムリアがとか、宇宙語がとか、

スター何とかが、と言い始めた時、

どういう反応をしていいのか、大変困りました。

 

ですので、要するにこれは、場を和ませるためのちょっとしたジョークだ、

と思う事にしたのです。

 

ところが、一ヶ月程すると、どうやら本気で言っているらしい事が分かり、

段々ついていけなくなり、しまいにはそこのコミュニティをやめてしまいました。

 

最後によく話していたメンバーは、

「ヨガとか瞑想は好きだけど、天使とかそういうのはちょっと…」

という感じの人ばかりでした。

 

そのコミュニティで、そんな風になってしまったのは、

父の家系が、今風にいえば、「ガチスピ」の家系だったからではないのかと

思い当たるのです。

 

前回の記事で書いたお局様に対して、

私が決定的に見る目が変わったのは、「盗聴器や監視カメラ」というセリフです。

 

あれから、私は何だかお局様の事が非常に気持ち悪くなってしまいました。

 

今にして思えば、そのような妄想は、

父方の家系の嫌な側面を、強烈に思い出せるからです。

 

 

 

いわゆる「霊能力がある人」と「精神的な疾患を抱えている人」の

客観的な指標はありません。

 

ガチスピの家系から、精神的な疾患を抱える人が必ず出る、

とは限りませんし、その逆もまた然りです。

 

しかし、私は一部のガチスピに対して、

妙な不安感を覚える事は非常に多いです。

 

そして、その一方でスピリチュアルを全否定するでもなく、

瞑想や占いについては、特に違和感なく受け入れています。

 

そこで、自分にとって瞑想や占いと「ガチスピ」は、

何が違うのか?を考えてみました。

 

色々ありましたが、瞑想や占いは、私が無理のない範囲で、

自分の個性を生かしながら、

周囲とどう調和して、現実世界を創るか?

というツールであると結論付けました。

 

スピリチュアルそのものを信捧する事には、あまり意味はない、

と、今日はっきりと自覚したのです。

 

この世界において、主となるのはあくまでも、人間そのものであり、

それ以外のものではない、という事です。

 

ですから、付き合う人はきちんと選びます。

無差別に平等に誰かと仲良くなろうとするのは、今日でもう終わりです。

自分の価値観と合わない人は、敬意を持って離れていこうと思いました。

 

 

 

何だか、取り留めのない文章になってしまいましたが、

とにかく、自分の本音をもっとしっかりとキャッチして、

自分自身を軸にして生きていこうと思います。