なんでもよし。

最早、何でも良い。

好きを仕事に。

こんにちは、Space-radです。

 

一昨日、「好きを仕事に」を真面目に考える、と書きながら、

話が物理学の方にずれていってしまったので、改めて考え直してみたいと思います。

 

一週間程前の事ですが、通勤電車に乗っていた時、降りる駅が近づいたので、

読んでいた本を鞄にしまい、顔を上げましたら、目の前の人が持っていた鞄に、

こんな意味の英文が書かれていました。

 

「あなたを幸せにしてくれるものは、何ですか?」

 

 

 

英語の「Happy」という単語は、偶然と幸運という言葉が元になっていますので、

お酒を飲んでほろ酔い気分になった、とか、

美味しいものをたくさん食べて幸せ、とか、

好きな音楽を聴いて気分がいい、という事を表します。

 

30代は、とにかく病院で「患者さんのために」という価値観を

叩きこまれてきたので、ここ10数年程の間は、

「自分の好きが良く分からない」という状況に陥っていました。

 

5年ほど前から、ようやく重い腰を上げて、自分と向き合うようになったのですが、

今年に入ってから、そういう事をあまり真面目に考えてこなかったな、

と、ちょっと反省しました。

 

 

 

私の算命学の命式は、とかく火が強いです。

 

最初は、分からないので特に感想はなかったのですが、

分からないは分からないなりに調べていくと、

どうやら、何かを表現する、それも自分の好きなものなら、

尚よしという事なのかな、と思い始めました。

 

そこで、この「表現」とは何か、という事を少し考えてみたら、

小さい時の自分の事を、急に思い出しました。

 

 

 

私の母は、絵とか音楽とか、そういう芸術というものに、

とんと関心のない人でした。

 

母が、生前よく言っていた事に「絵や音楽や体育なんか得意でも意味がない、

そんなものは何の得にもならない」でした。

学歴コンプレックスの強い人でしたから、国、社、数、理、英の全部を、

せめて5段階評価中の4は取ってこい、と無茶苦茶な事を言っていました。

 

特に、母が強いこだわりを見せたのが、数学です。

 

しかし、私は数学は得意ではなく、

むしろ学校で褒められたり、賞を取ったりするのは、

絵と文章でした。

 

それが、母からすればとにかく気に入らなかったようで、私が家で絵を描いていると、

「勉強しろ!」とよく怒られました。

 

仕方がないので、私はその内、家族に隠れてこっそり絵を描いたり、

文章を作ったりしていました。

 

そんな調子なので、私にとって美術とか文学とかは、

人に見せるものではなく、誰にも見せずにひっそり自分だけで楽しむもの、

という意識だけが強烈に残りました。

 

 

 

こう書くと、あまり芸術関連に恵まれていない家のようですが、

私にとっては、逆にそれが良かったのではないかと思うのです。

 

もしも、母が芸術や文学に深い理解を示すような人だったら、

私をデッサン教室に通わせたり、高価な本を買い与えていたと思うのです。

 

実際、母から一度アンデルセンの童話を買い与えられましたが、

全く読まずに終わりました。

 

小学生高学年にもなると、学校の図書館、区の図書館、

隣区の図書館の3件をはしごして、読みたい本を手当たり次第に読んでいました。

 

絵や文章にしても、型などというものはなく、

自分の作りたいものを、手当たり次第に作っているような子どもでした。

 

恐らく、母が私の絵や文に期待をかけたなら、

型にはめられて、あっという間に飽きていたと思うのです。

 

頭から否定されてきたからこそ、ただひたすらにやりたいように、

隠れてまで絵や文を作っていました。

 

しかし、教師たちの目からすれば、やりたいように作っている絵や文章が、

とても好ましく写ったようです。

 

 

 

ここで、私と母の間にひとつの共通点が浮かび上がります。

 

それは、自分の持っている才能の種を伸ばすための、「型」がないという事。

 

母は主星に玉堂星を持ちながら、母親のいない家庭に育ちましたし、

私は表現の星や干支をこれだけ持ちながら、それらを否定されてきました。

 

 

 

実は、絵に関しては、私は随分心残りがあるのです。

 

特に絵に関しては、

大人になってから「人に見せる絵」を意識していた時期があったのですが、

もう苦痛しかないのです。

 

「人のために絵なんか描きたくない」というのが、私の本音です。

私は、自分を殺してまで絵なんか描きたくないのです。

(実際、このブログも自分が書きたいから書いているだけです。

ですから、見られようが見られまいが、それはどうでもいい事です。)

 

でも、結局の所、いつまでも隠れてやっていても仕方がないのかな、

と感じ始めてもいます。

 

 

 

鳳閣星は「洩気の星」らしいので、いつまでも隠し通せるものでもないようです。

 

当面の課題は、「自分を幸せにしてくれるもの」を探す事ですかね…。