なんでもよし。

最早、何でも良い。

愛は虚構。

こんにちは、Space-radです。

 

虚構について色々考えたり調べたりしていましたら、

なぜか「愛」という言葉に思考が流れていったので、

それについて書いていきたいと思います。

 

サン・テグジュペリの星の王子様がこの投稿をするきっかけとなっています。

ですが、とても野暮でおよそロマンチックとは真逆の考えになりますので、

閲覧の際には、各自でご判断願います。

 

 

 

数年前に、初めて「星の王子様」を読みました。

読後感は特にこれといってなく、

ただ自分の中に残った疑問が、

なぜ「それ」は赤いバラという表現方法だったのか?という事です。

 

物語の概要は、外の世界を知った事で、

王子様が大事にしていた赤いバラや小惑星の価値を改めるというような話です。

ja.wikipedia.org

 

ここでちょっと意地悪な事を考えました。

 

もし、その小惑星に王子様以外の別の人間がいれば、

その人間は「赤いバラ」と呼ばれていたものを、一体何と呼んだのでしょうか?

王子様以外の人間は、果たして「それ」を「赤いバラ」と認識するでしょうか?

 

なぜ「それ」は桜やスミレとは呼ばれなかったのでしょうか?

 

 

 

「愛」は何か特定の感情や感覚の名前に過ぎません。

愛を愛と呼ぶ根拠は何でしょうか?

どういう状態になれば、それを「愛」と呼ぶことができるのでしょうか?

 

 恋愛ドラマや小説などで度々使い古される、

「あなたに私の心の中を見せる事ができたなら」という言い回しが指し示すように、

愛は実在ではありません。

 

なぜなら現実世界に物質として登場させることはできませんから。

(お金や高価なプレゼントとして無理やり代替えする事は可能でしょうが)

 

それは、外界で起こった刺激を五感によって認知し、

自分の中で「何か」が反応した結果、「愛」だと感じるだけなのではないでしょうか?

 

また、私が「愛だ」と感じるものと、隣に住んでいる人が「愛だ」と感じるものは、

それぞれ違うものでしょう。

 

それは、私の肉体の中に入っている「何か」と

隣人の肉体の中に入っている「何か」は、同じではないという事を表します。

ですから、同じ刺激を受けても感知する「何か」は違うのですから、

異なる結果が生まれるのは当然の事だと思うのです。

 

 

 

しかし、現代に生きる私達は恋愛によって成立した結婚(関係性)には、

何か神聖な愛のようなものが存在していると考えがちです。

 

それはもしかしたら、同じ一本の赤いバラを心に持っている、

という単なる錯覚ではないでしょうか。

 

或いは、白いバラを赤く染めただけのものかもしれませんし、

桜の花びらをたくさんかき集めて、どうやら一本の赤いバラのような花を、

作りあげただけかもしれません。

 

もっといえば、一方の心には桜が、

もう一方の心にはスミレがあるかもしれないのです。

 

「愛は変わる」どころか、そんなものは初めからなかったかもしれないのです。

私達は桜やスミレ、もっと違う花を「これはバラだ」と名札をつけて、

心の中にぶらさげているだけなのかもしれないのです。

 

結婚という関係性を最大限に楽しみたいのなら、

この違いを受け入れて、その時々で共同で虚構を作り変えるという、

すこぶるクリエイティブな作業が必要になってくるのではないでしょうか。

(でも、それはきっととても楽しいものに違いありません)

 

 

 

愛という虚構も、自分たちで好きなように作り変えればいいのです。

たったひとつしかない愛なんて、とてもつまらないものだと、

そう思いませんか?