なんでもよし。

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コロナと多死社会。

こんにちは、Space-radです。

 

今回のブログ記事は、何週間か前に書こうとして、

結局その時は書く機会が取れなかったお題です。

 

あの時、自分が何を書こうとしていたのか覚えてませんが、

とにかく書いていこうと思います。

 

 

 

去年、コロナに関するニュースを見て、

コロナが落ち着いても、その後に多死社会到来になるのではないかと

ふと思いました。

 

しかし、最近大阪でコロナ感染者数が増加しているというニュースを見て、

コロナと多死社会、同時に対応しないといけない事態になるかもしれない、

とふと思ったのです。

 

変異種が出たり、重大な副作用のためにアストラゼネカ社製の

ワクチンが使用中止になったり、コロナ対策は結構難航しているように思うのです。

 

このままでいくと、コロナが収束しないまま、2025年の多死社会に

突っ込む事態も考えておいた方がいいのかもしれません。

 

 

 

コロナに多死社会(老化による機能低下)が加わると、

凄い勢いで人口が減少する事になりそうです。

 

みんな、コロナ前は「ころっと死にたい」と言っていた癖に、

最近は「コロナが怖い」と部屋に閉じこもってます。

 

単純に苦しい思いをするのが嫌なんでしょうけど、

メディアが煽りまくった結果、何だかよく分からない事態に陥ってます。

 

今テレビ見てるのって、お年寄りが圧倒的に多いですからね。

 

 

 

「コロナが怖い」という70~90代のお年寄りの話を聴いていると、

いつも「この人は、本当は何が怖いのだろう?」と思う時があります。

 

人間、死ぬのは100%決まっている事です。

死ぬ、というのはつまり命を失う事です。

 

では、その命とは何なんでしょうか?

よく「命を守ろう」というスローガンを耳にしますが、

その言葉の本質は、一体何を意味しているのだろうか?

と、私はいつも思ってしまいます。

 

勿論、「感染拡大を防ぐ」という意味で使われている事は理解していますが、

それならばなぜ、「命を守ろう」という言葉に置き換えたのでしょうか?

 

欧米では莫大な死者数を出していますが、

その殆どが60代以上の高齢者だと言われています。

 

www3.nhk.or.jp

 

念のために断っておきますが、

高齢者だから仕方ない、というような話をしたいのではありません。

 

しかし、彼らはいずれ何らかの形で命を失う確率がとても高い人々です。

家族との別離は、どのような状態であれ、とても苦しいものでしょう。

 

そんな中で、私がここ数ヶ月の間、ひしひしと感じているのが、

「寿命を全うする事の大切さ」です。

 

 

 

命とか魂というものは、目に見えないし、物質化させる事もできません。

 

コロナが流行ろうがインフルエンザが流行ろうが、

命あるものは必ずそれを失う運命にあります。

 

大切な人を亡くしたくない、苦しい思いをしたくない、

という気持ちは、所詮は人間のエゴではないか、と近頃そんな事ばかりを思うのです。

 

 

 

例えば「終活」で検索をかけると、

お金をどうするとか、家族や親せきをどうするとか、

そんな話ばかりがメインになっています。

 

それも確かに大事な事ですが、もっと大事な事があると思うのです。

 

それは、死に際にあってどういう心の状態でありたいか、です。

 

「終わり良ければ、全て良し」という言葉がありますが、

幕引きって、人生において最も重要な出来事だと思うのです。

 

コロナになろうが、インフルエンザになろうが、肺炎になろうが、

結局は息を引き取るその瞬間に、何を想いながら意識を手放すのか、

それこそが最も重要な事なのではないでしょうか。

 

 

 

 …ですが、今この状態にあって、

「寿命を全うする事の大切さ」を他人に働きかけてみても、

あまり聴く耳はないのかなあ、などと思ってみたりもするのです。