なんでもよし。

最早、何でも良い。

宝くじと安楽死。

こんにちは、Space-radです。

 

今日、仕事帰りにふと思ったのですが、

宝くじに当たる確率と安楽死できる確率の話の本質は、

実は似たようなものなのではないでしょうか。

 

 

 

ここ数年の話ですが、老若男女問わずとかく「安楽死したい」という声を

あちこちで聞きます。

 

安楽死」と一括りにした所で、

人によって想像するものは、まちまちでしょう。

 

よく一般的にいわれている「幸福な最期」は、

愛する家族に見守られながら、眠るように息を引き取る、

というものですが、

こんなのは、宝くじに当たる事を期待するのと、

大して違いなんかないんじゃないか、と思うのです。

 

そもそも「愛する家族がいる」事を前提にすると、

多くの日本人が「幸福な最期」を迎える事ができなくなります。

未婚化が進んでいますし、

大家族であっても、家族関係が上手くいってない人も大勢いますよ。

どう考えても現実的ではないでしょう。

 

結婚したら人生薔薇色、というくらいには変な話です。

 

誰が創り上げたか分からない、

壮大な幻想に振り回される事もないんじゃないでしょうか。

 

 

 

では、どうすればいいのか、という話ですが、

以前、友達が宝くじを買うのを見て、

なぜ買うのか聞いた事があります。

 

その友達は、

「別にお金なんかほしくないんだよ(そりゃ、当たったらうれしいけど)、

ただ、宝くじを買って当選発表日を待つのが楽しいんだよ。

お金でお金を買うんじゃなくて、楽しい時間を買ってるだけだよ。」

と言いました。

 

その時、私は、なるほど、そういう考えもあるのかと思いました。

 

同じ時間を過ごすなら鬱々と過ごすより、少しお金を出して楽しく過ごせたら、

そっちの方がよっぽど有意義な時間の使い方だろう、と思ったのです。

 

この話を思い出して、私はこう思ったのです。

「じゃあ、幸福な死を迎えるために徳を積むのは、

実は、お金でお金を買おうとしているようなものなのではないだろうか?

そうではなく、自分がどんな最期を迎えるのかを楽しみにしながら、

徳を積んで楽しい想像を巡らせるのが、余程有意義な人生なのかもしれない。」

 

そもそも、「宝くじが当たる」とか「幸福な最期を迎える」というのは、

単なる結果論にすぎません。

 

その宝くじは当たらなかったかもしれませんし、

何かひとつ違えば、幸福でない最期になってしまうというのは、

あまりにも早計ではないでしょうか。

 

 

 

たとえば、自己や事件に巻き込まれる事なく、

無事に病院や自宅で最期を迎える事ができたとしましょう。

 

その最後の時に、何を望むかというと、私の場合、

アロマデューサーで、無印良品の「おやすみ」を焚いてもらい、

聖職者のコスプレをした人に(本物でなくてよい)、

「あなたの魂は天国にいきますよ、よかったですね」と、

無責任に言ってもらいながら、好きな音楽がかかっていれば、それで十分です。

 

人によっては、サンバや阿波踊りを踊ってもらって、

お祭り騒ぎをしてもらいたい、という人もいるでしょう。

 

何というか、そんな絵に描いたような綺麗な最期じゃなくても、

そういう楽しさはあってもいいんじゃないかなあ、と思うのです。

 

安楽に死ねるかどうかの保証なんて、全くないわけですから、

自分で自分の最期を演出する自由さくらいはほしいなあ、

と私は考えてしまいます。