「愛、平等、自由」という言葉は、耳触りのよい、大変気持ちの良い言葉です。
人が「愛、平等、自由」を求める時、その裏には「憎悪、差別、搾取」があります。
「憎悪、差別、搾取」があるからこそ、人は「愛、平等、自由」を追い求めます。
では、「憎悪、差別、搾取」がなければ、
「愛、平等、自由」も必要ないのではないでしょうか?
昨今、スピ業界でよく言われている「風の時代」に対する、
無防備なまでの希望を見聞きするにつけ、
何ともいえない違和感を感じていました。
「何かがおかしい、どこか非人間的だ」と思いつつ、
それが一体何なのか、よく分からないまま日々を送っていました。
風の時代を切望している人々の話を統括すると、
「個性を認め合う、平等で自由な世界」が風の時代だ、という事になります。
でも、よく考えてみると、これは凄くおかしな世界観です。
なぜかというと、「個性」を認めてしまったら、
みんなを「平等」に扱う事は、できなくなっていくからです。
一部のスピリチュアル系の方々の話を見聞きしていると、
所謂、世間でいう所の「一般的で常識的な社会や組織」に対する、
強力なコンプレックスを感じる事が、往々にしてありました。
その「社会や組織」に対する憎悪をベースとして、
「愛、平等、自由」が築けるのか?と、ふと思ってしまいました。
なぜなら、「社会や組織」を構成するのは、人間です。
人間社会に対して、強い不信感を持ちながら、
「愛と平等と自由」の名の元に、新しい人間社会を築く事はできるのでしょうか?
ありていに書くと、「社会や組織から差別されてきた自分自身の恨みつらみ」を、
「これからは個性と平等の時代!」と高らかに宣言する事で、
世間への恨みを、晴らそうとしているのではないか?と感じたのです。
もし、そうだとするならば、資本主義が終焉を迎えても、
「個性」で支配する世界が次世代に取って変わられるので、
それは、本質的に何も変わっていないのと同じではないでしょうか?
「平等」はいき過ぎると、「無個性」になります。
平らかに等しくするので、突出した個性を認めるわけにはいきません。
ですから、かけっこで一番をつけない、とか、
国民は全員農業をやればいい、となって、専門家がいなくなったりします。
「差別」と「区別」と「平等」の定義を、今の時代に合うように、
いちから、洗いざらい考え直す必要性があるように感じます。
自分の根っこに「恨みつらみ」を抱えながら、
それを無視していては、幸福は遥か遠い世界のものになってしまいます。
本当に、「個性を認め合う、自由で平等な世界」を作りたいなら、
そういう泥くさいものに蓋をせず、丁寧に見ていってあげる事が、
一番の幸福への近道のように思います。