なんでもよし。

最早、何でも良い。

心理的安全性を発動させるための恐ろしく過酷で残酷な条件。

こんにちは、Space-radです。

 

以前、「心理的安全性とは何か」という記事を書いたのですが、

どうも掘り方が浅かったため、もう一度調べ直してみました。

 

dragon-cosmos.hatenablog.com

 

今回は、深堀りが目的のためかなり激辛な内容になります。

参考にさせていただいた記事や動画は以下となります。

 

mirizerocket.com

 

www.nakahara-lab.net

 


心理的安全性とは? 心理的安全性の高い職場と、ぬるま湯職場の違い

 

 

 

 

まず、記事の冒頭に貼り付けたリンク先を視聴した結果、

私が考える心理的安全性とは、

「意見の衝突(対人リスク)を積極的に取ってでも、チーム全体の生産性を重視する。

そうしなければ、流動的で多面的な意見交換はできない。

そのためには、心理的安全性が必要不可欠だ。」

という一見矛盾したような答えが出ました。

 

事例をあげるとするならば、今回私が参加した「自分の物語を創る」講座内で、

誰かが講師に向かって「申し訳ないのですが、どんなに一生懸命聞いても

この講座の内容は面白くないし理解できないので、もっと有意義な事をしたいです。」

と言える環境が心理的安全性が高い状態です。

 

それに対する心理的安全性が保持された状況での

講師の相応しいと思われる受け答えは、

「どこが面白くないですか?分かりにくい所はどこですか?」

もしくは、

「退屈なことは分かります。ですが、この講義は必ず聞いてほしいのです。

何故ならAという根拠やBという目的があるからです。」

という事になると思うのです。

(勿論、上記発言に対する反論は大いにあり、という前提です。)

 

もっと残酷な事を書くと、

「この講座、着眼点はすごくいいと思うんですけど、

物語を創るための講座の内容と講師とメンバーのレベル、低すぎませんか?

多分、全員が時間内に創ることはできないと思いますよ」

という発言ができ、なおかつ主催者側にも参加者側にも、

それに対する議論ができるだけの心理的・時間的余裕がないと無理だという話です。

 

「人の話を聴かないなんて!」

「私が未熟なばかりに申し訳ありません」

「私はこの講座にこれだけの想いを一生懸命込めました」

などのように、感情的になって綺麗ごとを振りかざすことは、

Google掲示している「心理的安全性」とは真逆の考えだと思います。

 

心理的安全性の主たる目的は、

「生産性を上げる」ことと「人間関係が壊れない」ことです。

 

念のために書いておきますが、あくまでも「人間関係を壊さない」のが、

目的ですので、関係性を良くする必要性はありません。

「壊れなければ」それでいいのです。

 

 

 

さて、ここまで書いてきて「心理的安全性」を保持するために、

対人関係において必要不可欠な条件があるのではないか、と感じました。

 

それは、「非常に高度な感情労働をしなければならない」です。

相手がどんな意見を言ったとしても、感情的にならずそれを淡々と受け止める事、

そして、相手の発言がどんなに理不尽に感じても綺麗ごとで収めてはいけない

という事、この2つが守られなければ、自由で闊達な意見交換ができません。

 

Googleが本社を置くアメリカでは、

子どもの頃から自分の意見を積極的に発言する事を求められます。

それと同時に常に相手に伝わるアプローチを考え続ける事も求められるのです。

誰かを傷つけるリスクがあるなら、その意見を発信するための目的や意図を

しっかり説明して、できるだけ双方納得の上で行う必要性があるのです。

 

ですから、メンバー間の目的や定義をきちんと伝わるように言語化し、

それをメンバー全員が理解・納得・共有することが必須となります。

 

では、翻って日本はどうでしょうか?

日本では、空気を読む、つまり相手の立場に立って話を聴いてあげよう、

というスタンスが一般的です。

個人の意見よりも周囲とのバランスを重視します。

その結果、言葉ではなく非言語的コミュニケーション能力

(表情や仕草から相手のニーズを読み取る)が飛躍的に上昇します。

本音を言う(常に自分自身と向き合う)必要がないので、

最小限のチームワークで仕事ができる環境が整います。

マニュアルさえ徹底させれば、後は自動化できます。

責任と決定権の所在(組織化)がしっかりしていれば、

自由で闊達な意見交換は不必要です。

 

日米間という大雑把な括りでさえ、これだけの違いがあるのですから、

実際にはもっと細かい違いがあると思います。

心理的安全性」をただのお飾りではなく現実的レベルで実用化させるには、

相当なクリエイティビティと熟考が必要だと、強く感じました。

 

普段、無意識下に沈んで惰性でやっている・感じている「何となく」を、

意識化してそれを違う文化の人にも伝わるように言語化し、

更にメンバー全員で共有する、というやり方は日本人が最も苦手とするところです。

 

 

 

耳障りのよい語感にごまかされずに、しっかりと自分で調べて考える事って、

本当に大事なんだな、と改めて感じました。