なんでもよし。

最早、何でも良い。

我思う、ゆえに我あり。

こんにちは、Space-radです。

 

数日前に職場の人間関係でひと悶着ありました。

現在は何となく収束したのですが、何か見落としている事はないか?と

思っている所で、ある認知症の入居者さんから次のような事を言われました。

 

「あなたは、プライドの高い人だからねえ。」

 

まるで雷鳴に撃たれたかのようなショックを受けました。

それこそが、私自身の持つ心の癖の本質を突いた言葉だったからです。

 

認知症の患者さんは、理解力や認知力は著しく低下していますが、

その代わりある機能だけが、まるでピカピカに磨き上げたナイフのように

先鋭化されていきます。

 

それは、「ものの本質を感じ取る能力」です。

 

ですから、認知症患者さんの看護・介護は困難を極めるのです。

安直な嘘はすぐに見抜かれ、

全てを真面目に本気で受け入れると相手のペースに巻き込まれてしまい、

無視を決め込むと執拗に食い下がってきます。

 

認知症の患者さんを看護・介護するには、柔らかい頭と心がないと難しいです。

介助者は自分の中にある「子どもの心」を呼び覚ます必要があるのですが、

この「子ども」の部分を全開にしてしまうと、同じレベルで喧嘩になり、

逆に「子ども」の部分を閉じていると、

ルールを守れない患者さんへの深い憎悪となり、

時には虐待につながる可能性もあります。

 

自分の中で「子ども」と「大人」の部分を適度にバランスを保ちながら、

患者さんに接していかなければならないのです。

 

さて、話を元に戻しましょう。

 

私は、この入居者さんに「プライドが高い」と言われ、

ひとまずそれを受け入れました。

 

そして、プライドという言葉をきっかけに、私の内面に漠然と沸き上がった言葉が、

「コギトエルゴスム(我思う、ゆえに我あり)」と「無私」と「自我」でした。

 

 

 

私が「確かに自分はプライドが高い」と思った理由は、

「プライドが高いがゆえにそのような自分を押し殺して生きている」

と気付いたからです。

 

普段から、私は介護職員の方々に敬意を払って仕事をするよう心掛けています。

これだけ書くと、そんなに悪いことのように感じませんが、実はそうでもないのです。

 

なぜなら、その心の裏に隠れていたのが、

「一人前に仕事ができない癖に、介護職員にだけ偉そうな態度を取る看護師」の

存在を、ものすごく馬鹿にしていたからです。

 

つまり、「介護職員さんにもきちんと対応する自分」を演出することで、

「私を仕事のできない看護師と一緒にするな」と、周囲に印象付けていたのです。

これはもう、「プライドが高い」以外の何者でもありません。

 

 

 

看護師免許を取ったばかりの頃、仕事から逃げる癖のある同期がいました。

彼女は、大変人当たりが良かったので、

初めの内こそは、先輩や上司からの受けは抜群でした。

 

しかし、注射や点滴などの自分がやりたくない、自信がない仕事からは逃げ、

代わりに、周囲がフォローしていました。

先輩が数時間かけて教えた仕事内容も、メモをまとめたり、

自分で調べたりもしないので、同じ仕事を何回やっても、何もできておらず、

引継ぎの夜勤者を怒らせることもしばしばでした。

 

そして、彼女は先輩方にジュースやお菓子を配り歩いてはへこへこし、

新人の看護師や介護職員には、とても偉そうな態度を取るようになりました。

 

私自身もまた、彼女には多大な迷惑をかけられ、

時には濡れ衣を着せられそうになったりしました。

 

けれど、私はその病院を数年前に辞め、それはもう終わったことだと

思っていました。

ですが、実はそうではなかったのです。

 

私は、自分でも知らない間に、彼女への憎しみを心の中で育て、

そして、彼女から離れた後も、

「仕事のできない、介護職へ偉そうな態度を取る看護師」に遭遇するたびに、

その憎悪を再燃させていたのです。

 

そこで終わりかと思ったのですが、どうもそれだけではないような気がして、

更にその憎悪を深堀りしていくと、

「普通でない、勉強ができない、人間関係が上手くない」と言って叱られた

子どもの頃の自分が浮かび上がってきました。

 

憎しみの一番根っこに存在していたのは、私自身だったのです。

 

「私はできない人間なんかじゃない!」という証明を、

私は自分自身と周囲へと何度も何度も確認していたに過ぎないのです。

 

 

 

前置きがとても長くなってしまいましたが、ここからが本題です。

 

ここまで答えが出た後に、ふと思ったのです。

「私」って何だろう?と。

 

私は、「私は私だ」と思っていたし、

「自分を持つことはとても良いことだ」と思っていましたし、

「誰かに自分自身を侵害されるのは嫌だ」と思っていました。

 

たとえ、それが「愛」という感情であっても、

私は絶対に「愛」なんかに自分を明け渡さないぞ!と、

自分でも気付かない内に強く強く思っていたのです。

 

認知症の入居者さんが言った「プライド」という表現、

「私」という概念、「自我」という思考。

 

実は、これらは全く違う角度からみている(呼び名が違う)だけで、

本質は同じなのではないか?と思ったのです。

 

 

 

外側の世界や事象を疑った結果、

それを考えている自分自身は間違いなく存在しているという「コギトエルゴスム」。

自分自身の内面を深く掘り下げた結果、

外側の世界や事象に反応しているにすぎず、「私」という存在はないという「無私」。

 

我思う、ゆえに我あり」だから、人間は苦しむのかもしれません。

 

「我怒る、ゆえに怒りあり」

「我悲しむ、ゆえに悲しみあり」

「我憎む、ゆえに憎しみあり」

「我愛する、ゆえに愛あり」

「我喜ぶ、ゆえに喜びあり」

 

これは、何に対しても当てはまることなのかもしれません。

「我」を主軸にしてしまうと、様々な執着や苦しみから逃れられない、

という事でしょう。

 

だから、「我」が思わなければ、執着や苦しみも生まれません。

 

では、私達の肉体の中には、「何もない」のでしょうか?

肉体の中にあるものは、心?魂?もっと別のもの?

 

私は霊能者や宗教家ではないので、残念ながら、ここから先は分かりません。

 

 

 

これに関しては、今は私は自分なりの答えを見つけ出すことはできませんでしたが、

いずれ、何かしらの気付きがあれば、記事にしていこうと思います。