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安らかに寿命を全うする事と安楽に生きる事

こんにちは、Space-radです。

 

 「呪い」についての記事を書くつもりでしたが、

ALSの患者さんを安楽死させた事件が話題になっているようなので、

医療従事者の立場から、少し考察してみることにしました。

 

www.kyoto-np.co.jp

 

 

 

さて、「安楽死」を考察するに当たって、何らかの客観的、科学的な根拠が

必要だと思い、まずQOL(生活、人生、生命の質)の指標に則って

考察していこうと色々と調べておりましたら、

厚労省が下記のような資料を公開していました。

 

https://www.mhlw.go.jp/shingi/2009/12/dl/s1224-14c.pdf

 

この「生きる事の集大成を支える相談支援ガイドライン」を要約すると、

①生きることの全体像(心身の働き、生活行為、家庭・社会への関与、役割)

を示す共通言語が必要

②実態と構成概念を混同しない

(実際の状態とその状態を知って推論したことを切り分けて考える)

③言葉の意味と定義が曖昧な状態での議論は危険

(何をもって「安楽死尊厳死」とするのか?)

④生活の質の低下は生命の質の低下ではない(生命そのものが尊厳である)

 

この4つの要素が重要になってくるのでは?と考えました。

 

そして、私がこれらの資料を読んで出した結論は、

「人間はすべからく自他を殺害する権利はなく、

また、寿命がくるその時まで安楽に生きる権利と義務を有している。」

という事です。

 

また、現代西洋医学キリスト教の文化を色濃く反映しているので、

医療従事者の立場から、「自殺」は禁止事項とみなします。

 

 

 

ALS患者さんの話に戻します。

 

今回の事件で私が気になったのは、

①生まれてから亡くなられるまでの患者さんと家族の歴史、背景

②主治医と支援者と患者さん及びその家族の信頼関係とコミュニケーション状態

安楽死させた側の主張

安楽死させた医師と患者さんの「安楽死」への考え・定義の差

⑤何が改善されれば、患者さんは少しでも安楽に生きられたのか?

 

この5つです。

私が最も重要だと思うのは、⑤です。

 

 

 

 

呼吸状態が少しでも改善されれば、

他者に助けてもらいながらでも、少しでも自分でできることがあれば、

この患者さんは「安楽に生きる事」を選択したかもしれない。

 

その先、状態がどんどん悪化していくことが分かっても、

積極的な安楽死を取るべきではなく、

もっと消極的かつ自然で安楽な命の終わらせ方が、あったのではないでしょうか。

 

何故なら、呼吸状態の低下や自分でできることがなくなっていくことが、

「生命そのものの質の低下」には繋がらないからです。

 

その結果、この患者さんには最期まで安楽に生きる権利と義務がありました。

いかに本人が安楽死したいと希望しても、自他を殺害する権利は誰にもなく、

安楽死させた医師は、患者さんの生きる権利と義務を奪ったことになるので、

私は国の決断(逮捕)には賛成です。

 

 

 

①生まれてから亡くなられるまでの患者さんと家族の歴史、背景

 

この方がALSに罹患するまでの家族や友人などとの関係性を

考えていく必要性があります。

 

だからと言って、周囲の人間がもっと配慮すれば、

ということを書きたいのではありません。

みんな、自分の事で手一杯なのです。

 

人工呼吸器をつける・つけない等の延命処置に当たって、

尊重されるのは本人の意見だけではありません。

家族の意見もとても重要です。

 

何故なら、人は1人で生きているのではなく、

「家族」というチームの一員だからです。

 

誰かが欠けるという事は、遺された家族に身体的・精神的・経済的に

非常に大きなダメージを与えることになるのです。

 

ここでは、その家族関係が良いとか悪いとかは関係ありません。

関係性がどんなに壊滅的であっても、家族は家族なのです。

その意志を確認する義務が、医療従事者にはあります。

 

そこで、

②主治医と支援者と患者さん及びその家族の信頼関係とコミュニケーション状態

が重要になってきます。

 

ここでキーとなるのが、患者さん本人の意志と家族の意志に

どれ程の違いがあったのか?ということになります。

 

高齢者における看取りへの説明でも、家族が決めきれず、

考えたり話し合ったりするために、消極的な延命を選択することは良くあります。

 

消極的な延命とは、「人工呼吸器や胃ろうはさせたくない、でも食べられなくなったら

点滴はしてほしい、呼吸がしんどそうになったら酸素や吸引はしてほしい」

という事です。

 

私個人の経験の話になりますが、通常の静脈点滴+酸素+吸引で、

何か月か生きることは可能です。(最長で半年という方がおられました)

 

家族が決めきれない理由としては、大事な家族を失うことに耐えられない、

ということもありますが、医療従事者側の情報提供が不十分、という理由もあります。

 

大抵の説明は「食べられなくなったら、点滴や酸素や吸引は希望されますか?」の

一文で終わりです。

しかし、この患者さんに関しては、主治医や支援者、ご本人と家族との間で

どんなやり取りが交わされたのかが分からないので、詳細は不明という事になります。

(プライバシーにも関わる事でもあります)

 

 

 

安楽死させた側の主張

 

はっきり申し上げますと、

私が確認できた範囲での、この医師の主張は論外だと思っています。

 

高齢者(65歳以上)の終末期(老化とそれに伴う人生の終焉をどう迎えるか)と

若年層の難病による終末期(障害と共にいかに自分らしく生きるか)では、

置かれている環境も心身状態も社会的状態もまるっきり異なるからです。

 

もし、この医師が本気でこのような事を思っているのであれば、

逮捕されて良かった、としか私は言えません。

 

 

 

安楽死させた医師と患者さんの「安楽死」への考え・定義の差

 

これには、明確な差があったと思われます。

 

安楽死させる側は、高齢者と若年層の終末期をごっちゃに捉えており、

(安らかに寿命を全うすることの意味のはき違え)

患者さん側は、自分の人生に深い絶望を抱いていたことでしょう。

(生活の質や心身能力の低下は生命の質を下げることはできない)

 

要するに、最初から噛み合っていなかった、と私は考えています。

 

 

 

ところで、私はこの事件を調べてみて、とても強く感じたことがあります。

 

それは、日本人自身の人生において「安らかに死ぬ事」にばかり気を取られ、

「安楽に生きる事」をおざなりにし過ぎだとということ。

そしてもうひとつは、もっと自分自身を大切にし、

「安楽に生きる事」に積極的になってもよいのではないかということです。

 

 

 

昨今、どのように最期を迎えるか?に国民の皆さんが強い関心を抱いていることを、

個人的にとても強く感じます。

それは、とても大事なことですし、若い内からしっかり考えようとする姿勢は

とてもご立派だと思います。

ですが、よりよい最期を迎えるために、今をよりよく生きることも

もっと大事にしてほしい、というのが、

末端で働く一医療従事者として願うばかりです。