こんにちは、Space-radです。
今回は、ある利用者さんとの会話から思った事を
書いていこうと思います。
タイトルからして、割とぶっ飛んだ内容の話になります。
お読みになられる際は、ご自身で判断願います。
重ねてお願い申し上げますが、
責任は、ご自身で引き受けていただくよう、ご了承願います。
その利用者さんは、比較的足腰も元気で、
持病を抱えつつも身の回りの事は自分でできる人です。
その人の口癖は、
「もう十分生きた。早く楽に死にたい」です。
といっても、悲壮感はなく非常にあっけらかんとしています。
先日、その利用者さんと話をしていると、
上記の口癖が出たので、思い切って私は聞いてみました。
「コロナが安楽に死ねる病気だったら、罹りたいですか?」
そうすると、その人はちょっと考えて、
「まあ…そうだね…うーん」と、歯切れの悪い返事をしました。
別にそれはおかしな事でもなんでもなく、
人間の本能は、どのような状況におかれても「生きる」方に舵をきります。
終末期医療において、点滴や酸素をしますと、患者さんの神経系統は、
「生きる」ための反応を示します。
それは、ホメオスタシス(恒常性)という、生体の働きによるもので、
最期の最期まで、
体液を循環させ内臓の働きを低下させないように維持しようとします。
ですから、生物の心理面においても、このような働きが見られたとしても、
ちっともおかしな事ではないと、私は思うのです。
そこで、私はその利用者さんと「安楽な死とは何か」を、
一緒に話し合ってみました。
勿論、話し合ったからと言って、別に答えが出るわけではありません。
しかし、このような話し合いの場は圧倒的に足りない、
といつも感じます。
「自分の死」について話し合う事は、何か不吉で、
とても縁起の悪いものとされ、忌み嫌われる傾向があるのも事実です。
ですが、「その時」がいつやって来るかは、誰にも分からないので、
普段から、冷静にかつ気軽に話し合える場を持つことは、
とても重要だと思います。
(あまり重苦しい雰囲気にならず、ユーモアを交えながら、
肩の力を抜いて話し合えるのがベストだと、個人的には思います)
さて、私はこの利用者さんと「死」について話し合った後、
こんな風に思いました。
「どうやら人間は、種の保存がどうだとか生存本能がどうしたとか、
そういうものとは全く関係のない所で、生について特別な思い入れがあるようだ」
生への思い入れについて、その利用者さんと
詳しく話し合う時間はありませんでしたが、
それは、何というか自分の故郷とか思い出とかを大事にする、
そんな気持ちに少し似ているなあ、と感じたのです。
長く使ってきた道具に深い愛着を抱くような…、
そういう温かいものを感じました。
それを手放したくないという思いが、
死に対する漠然とした恐怖や不安を構成する一角を担うのかもしれません。
しかし、その一方で「苦しまないで死にたい」というエゴも
感じずにはいられませんでした。
死ぬにあたり、呼吸が止まるのは苦しいでしょうし、
苦しむ時間は短い方がよいに決まっています。
それは、誰だってそうでしょう。
私達は、「健康で文化的な生活」を国家から保障されるようになって、
いつの間にか、ありとあらゆるものは保障されるものだ、
と思い違いをしているのではないでしょうか?
「安楽死を認めろ」という言葉を見聞きする度に思うのです。
この人達は、一体誰に死の責任と保障を取ってもらいたいのだろう?と。
国家…つまる所、法律を作れと言いたいのでしょうが、
安楽死が認められているスイスやオランダでは、
それは「安楽死」ではなく、「自殺ほう助」とばっさり切り捨てています。
https://cellbank.nibiohn.go.jp/legacy/information/ethics/refhoshino/hoshino0069.htm
https://www.waseda.jp/folaw/icl/assets/uploads/2014/05/A04408055-00-0470201731.pdf
安楽死が、事実上認められている国においてさえ、
裁判や様々な書類の手続きなど煩雑な業務が必要です。
(日本で安楽死法が成立しても、
きっとものすごい面倒な手続きが必要になると思います)
それは結局、「簡単に安楽死させないための策」なのではないでしょうか。
「安楽死を認めろ」という人たちは、
私には「国家は、国民の尊厳ある安楽な 死を保障しろ」と
言っているようにしか、聞こえない時があります。
だけど、それだけはどんなに偉い人でも保障できません。
「死」という結果に対する責任は、結局の所、個人個人が引き受けるしか
ないのではないか、と私は思うのです。