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私達は「なに」を思考しているのか?

こんにちは、Space-radです。

 

今回は、「思考」についての考察です。

 

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スピリチュアル系の人達を見ていて、つくづく思うのは、

「直感」を使うのが抜群にうまいということです。

 

それが、芸術方面にうまく表現できれば幸せなのですが、

世の中、そうそううまくいかないのが常というものです。

 

スピリチュアル系の人達に、音楽や絵などの才能があると、

それは、そうじゃない人達にも「目に見える形」で

「自分の直感」を伝えることができます。

 

「論理的な言葉」を使う必要がありません。

 

スピリチュアル系の人達は、右脳を使うのが大好きで、得意です。

しかし、その反面「論理的に話す」ことが大変苦手で、

あちこちに話が飛ぶため、聞いている方は大変、ということが度々あります。

 

 

私は、そんな人たちを見ていて、ある日ふと思ったのです。

 

世間でいうところの「思考」とは一体何を指しているんだろう?と

 

たとえば、「感情」について考える時、私たちは本当に「それ」について

考えているのでしょうか?

 

感情とは、

人やモノに接して起こる喜怒哀楽・快不快などの心の状態、気持ち、心持ち、

です。(旺文社、国語辞典より)

 

自分の心の中に何かの感情を感じ、それについて考えている時、

それは、感じているのか?考えているのか?、一体どちらなんでしょう?

 

そもそも心とはどこにあるのか?も、非常に曖昧で、

専門家の間でも明確な答えは出ていません。

 

psych.or.jp

 

「感情」という現象について思考する時、私たちは自分の気持ちや快・不快について

正しく思考を巡らせることができているのでしょうか?

つまり、「今自分が感じている感情は何か?」と考えるのであれば、

それは「喜怒哀楽・快不快である」と適切かつ明確に言語化することが

可能なのか?ということです。

 

 

それでは、心の中で何かを感じ、それを考える、という行為は一体何なのでしょうか?

 

こんなわけの分からないことを考えてしまったのは、

アルボムッレ・スマナサーラ氏の「自分を変える気づきの瞑想法」を

読んだからです。

 

氏はこう述べています。

「人間の心を汚す唯一の原因は思考です。(中略)

また、何か事実があっても、感情が割り込んでくると、心は事実を否定します。

たとえば、嫉妬の気持ちがあると、美しい人を見ても

それほどきれいでもないと否定してしまいます。(中略)

駅まで行く時には、次に電車に乗らなくちゃと考えています。(中略)

次から次へと目的を作って先のことばかり考え、(略)いつも過程はどうでもよく、

死ぬまでいい加減に中途半端に走り続けているのです。」

 

そして、一方ではこうも述べておられます。

「無駄でない思考もあります。

それは、論理的、具体的に事実に基づいて、自分の役に立つこと、

人の役に立つことを考える思考です。」

 

 

 

もしかしたら、直感や感情を言語化する過程を「思考」というのではないか?と

ふと思ったのです。

 

私達の外側では日々、様々な現象が起こっています。

 

雨が降った、暑い・寒い、他者に親切にされた、仕事でミスをした…等々。

 

これはただ自分の外側でそういう現象があった、という事実が存在しているだけです。

しかし、このような現象を体験した時、人間は他人と話したくなります。

 

何を話したくなるのでしょうか?

それは、自分の感情やふとした閃きや直感ではないかと思うのです。

 

では、言語化して他者に話をした時、私たちの中では何が起こるのでしょう?

外側で起こった出来事に対して、言葉にならないもやもやしたものを感じた時、

それを言語化すると、強烈に顕在意識に残るのだと思います。

 

つまり、言語化することにより、自分で自分の感情や思いを再確認する行為を

行っているのでは、と考えたのです。

 

そうすると、「もやもや」を表現する時、言語化に失敗すると、

俗にいう「脳の誤作動」が起こることになります。

 

 

 

たとえば、誰かを呪う気持ちを表現(あるいは言語化)したとしましょう。

旺文社の国語辞典では、呪う=恨むとなっています。

恨むは、不平や不満を抱く、となっています。

更に、不平は思い通りにならず、面白くないと感じる様、

不満は満足・納得できずもの足りなく感じられる様です。

 

呪いの根っこあるのは、

思い通りにならない・満足(納得)できないという不快感です。

この不快感を感じているのは、「呪う側」です。

 

「呪われる側」に明らかな落ち度がない限り、

「呪われる側」は「呪う側」の持つ不平・不満とは無関係です。

呪われる側にとって、あくまでもこの「呪い」は、ただの現実です。

道端に転がっている石ころと同じ扱いになります。

 

それでは、この時「呪う側」の思考は

呪う者自身にどのように作用しているのでしょうか?

 

これは、私の推測ですが、呪う人の根っこにあるものが不快感であるならば、

感じているもの(不快感)と表現しているもの(呪い)には明らかに距離があるので、

「相手を呪う行為」は脳の誤作動を起こしている可能性があると考えます。

 

呪う人にとって、最も重要なことは、

外側で起こった現実に対し、「自分はどんな感情や気持ちになったのか?」です。

呪われる人にとって、

「呪い」がただの現実であるとするならば、その反対もまた然りです。

 

呪う原因になった現象も、所詮はただの石ころ(現実)に過ぎない、

と捉えることは可能です。

そして、その現象によって引き起こされた自らの感情や気持ちに

フォーカスしていくことこそが、

その「呪い」を浄化させる最も有効な手段ではないかと、思うのです。

 

 

 

そうすると、私達の人生において、感じたことをどう思考し、表現していくか?が、

とても重要な基盤となるのかもしれませんね。