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性別について思うこと

こんにちは、Space-radです。

 

ネットで色々なブログを見ていたら、ジェンダーについて言及した記事を

いくつかみつけました。

 

その中でも特に気になったのが、「女性による女性叩き」です。

 

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性別という縛りに関わらず、私達は何かのグループに所属していたり、

何かしらの役割を担っています。

そして、ある事に対して意見を求められた時、通常私たちは、

自分の属しているグループ、または役割という立場から、

感じたことや思ったことを、自分の言葉で述べていきます。

 

ですから、どうしても女性の場合は女性よりの意見になりますし、

男性の場合は男性よりの意見になります。

どんなに相手の立場に立って考えても、やはり限界はあり、

また、それが悪いということもありません。

とはいえ、共存していくためには相手の立場や感情を知る必要性があるため、

コミュニケーションを取ることで、私たちは他人を知ろうとします。

 

 

しかし、「女性叩きをしている女性」は明らかに「女性」というグループの

外に出てしまっており、「男性の側」に立った(つもり~あくまでも彼女たちは

女性であるため、現実的には完全に男性側になることは不可能です~)視点で

女性を見ています。

私が見た限りですと、このような現象は、男性には見られませんでした。

 

これは、私自身の経験によるのですが、女性としての自分を

激しく憎悪しているから、「同性を叩く」行為に出るのではないかな、と感じます。

 

自分の理想となる「女性性」のモデルとなるのは、

一般的には、男女ともに「母親」です。

母娘関係において、自分の女性性のモデルとなる母親と折り合いが悪ければ、

結果として、自分の中の女性性を憎んだり、

否定したりする結果になるのは、仕方ないことなのかもしれません。

 

勿論、それは父・息子関係にも同じことがいえるのですが、

男性が男性を叩く場合、「女性からモテるかどうか」と「老害」に

重点が置かれている気がするのです。

男性でありながら、女性側に立ち、

激しく男性性そのものを叩いている人は見当たりませんでした。

 

女性の場合もモテる人に対して、激しく嫉妬する人もいますが、

それ以上に、男性側に立って、女性を叩くという言動が

立ち現れる人が散見されました。

 

しかし、面白いな、と個人的に思ったのは、

結局、性別のこととなると、その話の軸となるのは女性なんですよね。

これは、特に女性の役割が男性に比べて、飛躍的に増えたことに

起因しているものと思われます。(出産、家事・育児+社会的な役割)

もしかしたら、全ての人類は女性から産まれてくることも、

何か関係があるのかもしれませんね。

 

 

話を少し戻して、それにしても、両親と良好な関係を築けている人は、

一体全体、地球上において人口の何割程度なのか?と、私は時々思います。

 

たとえば、江戸時代には丁稚奉公や身売り、折檻なども、日常的にありました。

そのような時代に、親子関係が良好な子どもが多かったとは考えにくいのです。

 

性別のことを考える以前に、生きることに必死だったのではないでしょうか。

最近思うのですが、少数派の人って、大昔から一定数存在していたと思うのです。

 

狩り(仕事)に行きたくないな~、俺も家で家事仕事の方がいいなあ。

と思っていた男性原始人もいたでしょうし、逆に

私も、外に行って狩り(仕事)したいわ~。危険だけど、めっちゃスリルよね。

と思ってた女性原始人もいたと思うのです。

 

しかし、彼らは性別における役割分担で

現代人ほど揉めることはあまりなかったと思います。

 

理由は非常にシンプルで、

その日の食糧を確保し、明日へと命をつなぐことが、彼らの最優先事項であり、

なおかつ、寿命がとても短いため、そんな議論をしている暇はなかった

と推測できるのです。

 

縄文人ですら、30年生きれば長生きの部類に入るのですから、

ジェンダーについて議論している余裕はありません。

 

しかし、文明や文化の程度が上がり、インフラが少しづつ整ってくると、

寿命も多少伸び、性差で悩む人が少しづつ表面化してきます。

 

心理学者の故・河合隼雄氏は自著「紫式部と日本人」の中で、こう述べています。

源氏物語光源氏の物語ではない。これは紫式部という女性の物語である。」

つまり、光源氏という架空の男性の主役を立てて、

その作者の女性心理が実は物語の軸である、というところでしょうか。

 

 

ここまで考えながら書いてみて、思い立ったのですが、

それでは、現代における「男らしさ・女らしさ」とは何か?

ということです。

 

現代では、女性も社会で働くことが当たり前となり、男性も家事・育児に

協力することを求められます。

俗にいう「大和撫子」や「益荒男」という「女性性・男性性」の

たった一つの理想形に当てはめるのが、もう無理なのでしょう。

 

人々の生活がここまで多様化した今、これからは自分の性別の在り方も、

自分自身で創り上げていかねばならないのかもしれません。

 

 

 

 

 

一方で、男女の性別で区切るから、話がややこしくなるのかな、とも感じます。

 

出世なんてどうでもよくて、

そこそこ恵まれた生活ができればいいと思っている男女がいて、

世の中に認められて、

地位も名誉もお金も全部手に入れたいと思っている男女がいる。

 

大雑把に分けて、昔からそういう男女のグループがあったけれど、

色々な事情(飢饉や疫病、生まれ)などが原因でじっくり考えたり、

発表する場(たとえば、貴族たちの社交場や、出版できるコネや知性)がなかったので

そのまま埋もれていただけかもしれないのです。

 

産業革命あたりから、数十年単位で文明が爆発的に進化し続けたために、

それまで見えなかった・聞こえなかったものがより鮮明に可視化できるようになって、

現状、混乱状態に陥っているのではないか?と感じるのです。

 

 

長く書いた割には、あまりまとまりのない文章になってしまいました。

 性別の話については、また時を改めて、別に記事を書いていくことに

なるかもしれません。