なんでもよし。

最早、何でも良い。

夢見る少女じゃいられない

こんにちは、Space-radです。

 

何と、また無職になりました。

前の職場に支配欲やコントロール欲が強すぎる人が、実は2人もいました。

 

これは私が病んで鬱になるな、と判断したので辞めました。

実際、病んでる人も相当数いました。

それにしても、2人もいるとは驚きました。

私には無理です、キャパオーバーもいいところです。

社長はとてもいい人だったので、残念です。

 

それで、今日はまたブログを更新します。

以前から書き溜めていた「差別」についての記事です。

 

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「日本の学校教育はよくない」

これは、私が度々目にする・耳にするセリフです。

 

そして、このセリフを聞くたびに、「そうだなあ、その通りだよ。」

と思っていました。

しかし、あまり深く考えてはおらず、何となく「日本の学校教育はよくない」と

漠然と思っていただけでした。

 

ところが、最近になってひしひしと感じるのです。

「日本の学校教育はある種の呪術みたいなもんだったよなあ。」と。

 

 

 

どの年代に限らず、日本の学校では

「みんなと仲良くしなくてはいけない」

「人に迷惑をかけてはいけない」

という風に教えられてきました。

 

「自分の尊厳を守るために時には戦うことも必要」

「人に迷惑をかけずに、自分ひとりだけで生きる事はとても難しい」

とは、教えられていません。

 

「お互いがお互いを尊重し、和をもって尊しとなす」ことも

「なくて七癖、迷惑かけてかけられて、それが健全な人間関係」ということも、

どちらもとても大事な事なのです。

 

 理想や希望を持つことは、人間の精神衛生上欠かせないものです。

 しかし、それと同時に人間はとても弱くて非力な一面も持つのです。

 

その弱さと理想への執着がいじめとなり、差別を起こし、

やがては戦争へと発展します。

 

その人間の「黒い一面」を「なかったこと」にするのは、

人間としての本質を大きく損なう行為なのではないか?と感じるのです。

 

怒りや悲しみをコントロールする、ということは、

決してそれらを「なかったこと」にするのではない、という話なのです。

 

 

何らかの報復に移す・移さないは、また別の話で、

「自分は今、怒っている・悲しんでいる」という感情を

素直に表現するべきだと思います。

 

自分が何に怒ったのか?どんな風に悲しかったのか?

自分がそれをよく知る必要があるのですが、これがなかなか難しいのです。

 

特に怒りの場合は咄嗟に反応できません。

 「和をもって尊しとなす」の精神が骨の髄まで染みついているので、

躊躇してしまう、という人が大多数でしょうし、私自身もそうなのです。

怒りを表現することに不安を抱く人もあるでしょう。

 

ならば、自分が安全と思う場所で、怒りを表現すればよいのです。

 

私は自分の感情を整理するために、時々プロのカウンセラーさんに

話を聞いてもらうことがあります。

文章化するのもいいと思います。

人に見せないで、感情の赴くままに書きなぐってみるのもよいでしょう。

そして、怒りに任せてその紙をびりびりに破くのです。

 

ちなみに私は脳内でむかつく相手を拷問して処刑しますw

もう気のすむまで、拷問しまくり処刑しまくりですよ。

すごいスッキリしますよ。

 

 

悲しみも怒りもしっかり感じて、表現する。

これらの感情はネガティブなものとして、敬遠されがちですが、

人間は、悪しきものと善きものの2つの心を持って生まれてきます。

 

理由は分かりませんが、それが現実なので、

受け入れて、そのエネルギーや経験を上手に使うこともできるはずです。

 

ネガティブな感情も受け止めてやらなければ、

人間の精神は根幹から、じわりじわりと腐食していきます。

 

肉体の健康と同じように、精神もきっちりメンテナンスすること。

 

だから、腹が立ったら怒ってもよいし、

悲しかったら泣けばよいのです。

 

うまく表現できないなら、人に見せなくてもよいのです。

自分で自分を認めてあげることができれば、それで万事OKなのです。

 

 

 

 というような記事を書いていたら、下記のような文章を見つけました。

 

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これは確かにその通りなんですが、ひとつだけとても重要な視点が抜けてるんですよ。

それは、自分に返ってくるかもしれないから悪口を言わない、

人から尊敬されたいから他人を大事にする、

というのは非常に利己的な考え方だということです。

 

とても受け身だと私は感じました。

悪口を言う・言わないも、誰を尊敬する・しないも、個人の自由意志です。

 

そこで何か不利益が生じたのなら、自分が受け止めればいいだけの話で、

逆説的にいえば、悪口を言ったことで周囲に何らかの影響を及ぼし、

それを見て、自分を振り返るきっかけにもなるのです。

 

どうして悪口を言ったり、バカにしたりするのか?

 

その背景を自分で理解した上で、そういう自分も受け入れるのか否かは

自分で決めればいいのです。

 

自分で自分を知ることができるのならば、それを知った上で

「受け入れても大丈夫」

と思うなら、受け入れればいいんです。

 

でも、

「理解できない(または理解できるけど)、受け入れたくない」

と思えば、距離を置いてもいいのです。

 

自分の個性を理解した上で、自分で決める。

 

人を差別してはいけない、と罪悪感を抱く必要はありません。

 

人間は神ではないので、全ての人間を認めて受け入れるというのは、無理です。

自分で自分を丸ごと受けとめてあげれば、こんなに心強いことはありません。

 

そうです、人生は「僕の考えた最強の(ry」でオールオッケーなのです。