なんでもよし。

最早、何でも良い。

才能とは何か。

どんな職業であれ、その業界に属する人間全てが、

適正とやる気に満ち溢れているか、というと、残念ながら、

現実はそうではありません。

 

この様な場合、最も過酷な道は、理想は高く適正は低く、

というパターンではないでしょうか。

 

 

 

一時期に比べると、最近はめっきり聞かなくなりましたが、

「好きを仕事に」という言葉には、意外に大きな落とし穴があるな、

と最近痛感しました。

 

その事を考えるきっかけになったのが、ジョニー・デップ氏の離婚問題です。

 

勤務先の食堂のテレビで、たまたま裁判の事を見かけたのですが、

私は、この奥さんのアンバー・ハード氏の事が非常に気になりました。

 

この人は、何だってこんな風になってしまったんでしょうか?

 

結婚当初の事は、私は全然知らないのですが、それにしたって、

最初からこんな風ではなかったろうに、とちょっと考え込んでしまいました。

 

 

 

ところで、私の働く施設で、

仕事上必要な引き継ぎや決断・判断を下せない人が、数名存在します。

 

中には、ある利用者の次の処置を、何月何日にしてほしい、

とはっきりと言わず、記録などでそれとなく匂わせて、

その日付を何となく察して欲しい…という謎の行動を取る人が、

何人かいます。

 

その人たちを見ていて強く感じたのは、どうやら責任を取りたくないから、

はっきり言いたくないらしい、という事です。

 

私も初めは「何で!?」と、意味が分からなかったのですが、

アンバー氏を見ていて思ったのは、

彼らは別に責任を取りたくないわけではなく、

自分のキャパシティを大幅に超えているため、

具体的にどうやって責任を取ればいいのか分からないし、

正解を教えられても、それを信じる事ができないのではないか、

という事です。

 

私の周りのおかしな人たちを見ていると、皆一様に

「異常に理想が高い」のです。

 

そして、彼らが専ら興味を持つのは

「理想の看護師象をやれている私」であって、

「利用者さん(患者さん)の病気や生活をケアしたい」ではないのです。

 

俳優という仕事を、私は良く知りませんが、

「理想の俳優(女優)になれている私」という思いだけでは、

「他人の人生を演じる」事の重みには、

到底耐えられないのではないでしょうか。

 

おくりびと」なんか観ていると、

演者によって「他人に興味がある・ない」の違いが、

はっきり出ていて、非常に分かり易かったです。

 

 

 

しかし、「理想の○○になれている私」だけでは、

大半の人が、その憧れの職業に就く事はできません。

 

それは、本当の意味で好きなのは「その仕事」なのではなく、

「自分自身」だからです。

 

ただ、世の中には、不幸にしてその事に気付かず、

プロになってしまう人もいらっしゃいます。

 

ですから、この夫婦だった二人は、性別を反転させて、

「押しも押されもせぬ大女優と微妙に才能のある駆け出しのバンドマン」

と捉えると、非常に分かり易い構図になると思います。

 

 

 

ですので、自分の才能を現実的に考えるには、

まず「好きな事や興味のある事をやる」のと同時に、

本当に純粋に好きなんだろうか?ただキラキラしている自分が好きなだけでは?

という所を自分に問い続ける、という、

割と地味でしんどい作業も、並列してやっていかなくてはならないのでしょう。