なんでもよし。

最早、何でも良い。

仕事を通して自己表現する。

こんにちは、Space-radです。

 

早いもので、もう10月も終わりです。

いよいよ本格的にインフルエンザ、コロナ、ノロなどが猛威を振るう時期の到来です。

 

あまり深刻になりすぎず、できることを少しづつ続け、

時には羽目を外して適度にストレス発散をし、疫病を撃退していきたいものですね。

 

 

 

さて、前回の記事では「仕事についての瞑想をしたら、生き様をどうするか?」という

大きすぎるテーマが出てきてしまい、困ってしまいました。

dragon-cosmos.hatenablog.com

 

人間、誰しも後悔のない最期を迎えたいものですが、

では、具体的にどう生きれば、幸せな最期を迎えられるのでしょうか?

 

最期のその時には、他者からの評価は全く意味を成さなくなり、

死が近くなればなるほど、自分の内面や主観と向き合わざるを得なくなってきます。

 

なぜなら、自分の存在がこの地球上からなくなる(肉体が滅ぶ)というのは、

肉体に付随していた物(財産など)や称号も、

死んだ瞬間には全て消え去ってしまうからです。

 

生者から見れば、消えてなくなるのは「死者の魂」ですが、

死者から見ると、消えてなくなるのはこの世で所有・所属していた

ありとあらゆるものです。

 

 

 

しかし、仕事というものは、「死」とは真逆に位置します。

私達は「仕事」をすることで対価を得、それで生活を成り立たせたり、

何らかの消費活動に充てます。

それは、正に「生」を表す活動ではないでしょうか?

 

衣食住を得ることは、私達の肉体や社会活動を維持するために必要です。

そして、消費活動をすることで、何かを手に入れる喜びや刺激を感じます。

 

衣食住は主に自分の肉体を維持していくために焦点が置かれているのに対し、

消費活動はその逆です。

 

 

 

数年前、職場の同年代の先輩がこんな事を言っていました。

「ものすごく美味しい物が、ほんの少し食べられれば、とっても幸せ。」

「ものすごく美味しくても、たくさんは食べたくない。」

 

今になって思うと、この言葉が人間本来がもつ自然な幸福への願望なのではないかと

いう気がとてもするのです。

 

年収もある一定の額を超えるとあまり幸福感を感じなくなる、

という話を聞いたことがあります。

 

肉体を維持するのに、特別美味しくある必要はなく、

肉体を保護するのに、過度に着飾る必要はなく、

肉体を休めるために、大きなお屋敷は必ずしも必要はありません。

 

しかし、特別な日に、普段の食事より少しだけ美味しいものを食べると、

「味覚」が刺激され、幸福な気持ちになり、

特別な日に、普段よりもお洒落をすると、「視覚」が刺激され、幸福な気持ちになり、

今までよりも、快適な住居に住む事ができると「五感」が休まり、

幸福な気持ちになれます。

 

もっといってしまえば、肉体や生命を維持するのに、

文化や芸術は必ずしも必要ありません。

 

しかし、それらがないと私たちは生きる活力を失います。

素晴らしい文化や芸術に触れることで、私たちの内面は充足されて、

生きる希望が湧いてくるのです。

そうすると、映画や音楽、ゲームに本、そういうものにお金を使うことは、

ただ単に感情や欲望を満たすための「消費活動」だけではない、

ということになります。

 

ただし、この消費活動を求める根幹にある欲望は非常に厄介で、

ある一定のラインを越してしまうと、自我がオーバーヒートして、

より強い刺激を求めるようになり、そのために自分の限界を超えて、

無茶な行動を取らせてしまうことが往々にしてあります。

 

 

 

さて、今までの世界では上記で述べたような消費活動で、

私達の内面は十分に満たされていましたが、

ここにきて状況が大きく変わってしまいました。

 

コロナです。

コロナウイルスが、世の中の在り方を大きく変えてしまいました。

 

1980年代のバブル経済で、日本人は「ものがない」という戦後の極限の状態から

一変し、ただひたすら消費することの狂喜と虚しさを経験しましたが、

そこから更に進んで、「もの」とは何か?を考え直す時期に差し掛かっているように

思います。

 

私達は今まで通りの消費活動を行うことで、自分の内面を充足させることが

難しくなってしまいました。

今、私たちが最も渇望しているもの。

それは、自己の内面を充足させるものではないでしょうか?

 

 

 

コロナ以前から、「好きを仕事に」というフレーズが徐々に広まり出しました。

私はその言葉を「仕事を通して自分を表現したいという欲求が、

世界規模で強くなってきているのかな」と捉えました。

 

実際、Youtubeで広告収入を得よう考えている人の多くは、自分の興味のあるもの、

歌やゲーム実況、解説動画などを作る傾向が多いように感じます。

今までの古い世界では、「仕事を通して自己表現」できるのは、

ごく限られた職業の人たちだけ、と認知されていました。

 

そして、他の人達はそれを消費という受動的態度によって、

自己の内面の充足化を図っていたように思うのです。

 

 

さて、それでは私たちは仕事、あるいはネット社会を利用して、

どのように自己表現をしていけばよいのでしょうか?

一番最初の「生き様」からは、いくぶんテーマが小さくなったとはいえ、

まだまだ曖昧で抽象的です。

 

今後、この辺りをもう少し具体的に考えられるようになれば、

「死」を見据えた「生」を満喫することも可能になってくるのかもしれません。