なんでもよし。

最早、何でも良い。

「見る」とは、何か。

前回、法隆寺に行った時、ある仏像がおかしな具合に見えて、

何となく、妙な気分になった、という話を書きました。

 

dragon-cosmos.hatenablog.com

 

今回は、「見る」(視覚、ビジョン)とは何か?という事について、

書いていこうと思います。

 

 

 

あの後、ふとした事がきっかけで、4~6才の頃、

目玉のお化けに悩まされていた事を思い出しました。

 

そのお化けは、夜寝る時間になると現れて、寝室をぎょろりと睨みつけるのです。

 

私は、とにかくそのお化けが怖くて怖くて仕方がありませんでした。

 

しかし、今になって冷静に考えてみると、

実は、その当時、子どもが寝静まった後、

大人だけで家族会議をしているのを、たまたま私だけが見てしまい、

その雰囲気が、あまりにも深刻だったため、

何か見てはいけないものを見たような気になり、

非常に大きな罪悪感を持った事があったのです。

 

それが、私の心の中で変化し、「目玉のお化け」という

ビジョン(錯覚)を生み出したのではないか、と考えたのです。

 

今回の法隆寺も、全く同じ事で、仏像に何か不思議な要素がある、

というよりは、たまたま私の心理状態に応じたビジョンが、白昼夢のように、

そこに立ち現れた、というだけなのではないかという気がしました。

(実は、思い当たる事があるのです)

 

 

 

ですから…結局、人の五感が現実を創り出している、というのであれば、

他人を理解する、というのは、非常に困難を極める事になります。

 

私達は、自分と他人との間で、

世界の感じ方にどの程度の差やズレがあるのかを、

完璧に認知・理解する事はできません。

 

相手の肉体や思考をまとって、相手の五感を通して、

世界を眺める事など、決してできないからです。

 

ですので、私達は「言葉」を使って、

自分が見えている世界を他人に説明したり、

人の話を聴いたりします。

 

しかし、それでも100%は絶対に伝わりません。

 

でも、それでいいのではないでしょうか。

 

他人に自分の世界観を100%理解させる事よりも、

自分の世界観を表現する事で、楽しい時間を共有できるのなら、

別に、お互いがお互いを、そんなに厳格・厳正に、

理解したり、されたりする必要はないのかもしれません。

 

むしろ、他人を100%理解できる、というのなら、

私は、それは思い上がりではないか、と感じるのです。

 

「みんな違って、みんないい」は、それは確かにその通りなのですが、

別にそんな事、いちいち強く意識して生きる程でもないのかな、

と、最近は思ったりもします。