コロナ対応のために、7、8月は長期休暇が取れなかったのですが、
今月の初めに4連休、末頃に3連休を頂きました。
せっかくなので、どこかに行こうと思い、末に伊勢神宮に行く計画を立てました。
4連休は、ストレス発散の為に、無休で最低でも1時間くらい歩きたかったので、
京都の河原町駅から銀閣寺、哲学の道までをひたすら歩く事にしたのですが、
結局、それは取りやめになり、日帰りで高野山へ行き、
大阪のホテルに泊まり、そこからまた高野山麓の極楽橋まで戻り、
今日帰ってくる、という意味不明な行程になりました。
銀閣寺に行くのを取りやめたのは、
高野山で買った白檀がそろそろなくなりそうだったからです。
高野山以外のお香のお店を、何件か回ったのですが、
結局は高野山のが一番私の好みだったので、だったら、
日帰りで高野山にでも行ってこよう、となりました。
ただし、最初の計画では、
⇓
ケーブルカーとバスを乗り継いで、高野警察署から、
片道30分程かけて、奥の院入口手前のお香のお店まで歩く
⇓
その帰りに精進料理を食べる
⇓
大阪のホテルに一泊後、帰宅
という行程でした。
以前、奥の院に行った時に、頭が痛くなったり、肩や腕がしびれたり、
という事があったので、今回は行かない事にしていました。
しかし、いざ当日になってみると、台風の影響か天候はとても悪く、
それでも何とかなるだろうと思っていたら、
高野山麓の極楽橋駅に着いた頃には、すっかり本降りになっていました。
電車の遅れはなかったのですが、あれやこれやと私の都合が積み重なり、
当初の予定より、出発時間も30分程遅れていたので、
この日、極楽橋で降りるのはやめました。
ですが、往生際の悪い私は、「山の天気は変わり易いから、
高野警察前ではもっと雨がマシになっているかも…」と、
期待しておりました。
が、高野警察前に着いた時点で、
いくら防水のハイキング用のスニーカーを履いているとはいえ、
この雨の中、バスを降りて歩くのは、あまり賢い選択とは言えない、
という状況になっていました。
仕方なく、そのままバスに乗って奥の院まで向かいましたが、
バスは、奥の院入口でも止まるので、そこで降りればいいや、
と気楽に考えていました。
そして、奥の院口が近づいたので、降車のブザーを押したのですが、
なぜかブザーは鳴りませんでした。
「何で鳴らないんだろう…」と考えている内に、バスの運転手さんが、
「奥の院、通過します」とアナウンスされたので、
もうこの時点で、全部諦め、とりあえず奥の院までお参りする事にしました。
奥の院に着いた時には、階段から雨水が滝のように滴り落ちるような有様でした。
本堂では、黄色い袈裟を来たお坊さんが、一人でお経を読んでいました。
お賽銭を少し投げて、どうせ雨だしと思い、そのお坊さんのお経を、
意味も分からずに聞いていると、15分程で終わったので、
外に出てみると、雨は小降りになっていました。
この様な現象を「呼ばれた」と仮定するとして、私の場合、
特に天啓のように何かを閃いたりしたわけでもないので、
はっきり言って、意味は全くないと思います。
…しかし、帰宅してから、20代の頃、
頻繁に法隆寺に出かけていたことを、急に思い出しました。
その当時、家族間で大きな問題が浮上し、その事で悩んでいた私は、
法隆寺に通いながら、ユング心理学の河合隼雄先生の無意識の本を読み漁る、
というかなり奇妙な事をしていました。
ちなみに、20代の時の私は、法隆寺がどういう宗派で、
そもそも仏教がどういう宗教なのか?は、全く分かっていませんでした。
そんな具合なので、現実世界とは全く折り合いがつかず、
半ば、引きこもりのような生活をしていました。
法隆寺に行かなくなってから、20年近く経ち、今は時々、
高野山に行くようになってしまいました。
そんな事をぼんやり考えていると、何故か急に、
鞍馬寺の世界観を理解するためには、高野山を通らなければならない、
と思い立ちました。
理由は良く分かりません。
鞍馬寺の宗派を少し調べてみましたら、天台宗の影響が強いみたいで、
実際、比叡山にも出かけてみようか、と考えた事がありますので、
もしかしたら、気が変わって、比叡山に行くことにもなるかもしれませんが、
最終目的が鞍馬寺、というのは、どうやら変わらないようです。
鞍馬寺には、3年前に初めて訪れ、それ以来行っていません。
近くの貴船神社には、何度も行っているし、
稲荷山にも何回か山頂まで登っています。
しかし、なぜか毎回貴船神社に行っても、鞍馬寺まで登る気がしないのです。
ちなみに、鞍馬寺が最終目的、というのも具体的に何が、
という事を、私は説明できませんし(ただの直感なのでする気もないです)、
もっと言うと、西洋占星術を何のために調べているのかも、
実は、自分では良く分かっていません。
ですが、別に理解する必要もないような気がしてきました。
あの時、高野山の奥の院口でバスの降車ブザーが鳴らなかったのも、
きっと、ただの偶然で、全てはただの思い込みに過ぎないのでしょう。
だけど、全部それでいいような気がしてきました。