なんでもよし。

最早、何でも良い。

ネガティビティは断捨離せずに、消化して栄養にしよう。

スピリチュアル業界では、2023年?くらいまでは、

人々の意識上にネガティブなものが浮上しやすいらしいです。

 

理由を、色々な人が書かれていましたが、途中で読むのをやめたので、

細かい仕組みは良く分かりません。

 

そのため、2023年までに自分のネガティビティを断捨離すると良い、

と主張されている人がいらっしゃいましたが、

それ、物凄く勿体ない事していませんか?

 

 

 

どんな人にも、苦しい事や辛い時は存在しますが、

それを排除しよう、という考えは、いうなれば、モロヘイヤやゴーヤ、

魚やお肉の内臓は、食べにくくて苦いから、捨ててしまおう、

という感覚に似ているような気がします。

 

苦味や酸味があったり、生臭く食べにくい食品は、

食べる側にとって、あまり良い事はなさそうに思いますが、

これらの食物には、ビタミンやミネラル、その他質の高い栄養素が、

豊富に含まれています。

 

それと同じで、一見、自分にとっては、

ただ辛くて苦しいだけの経験を、「有害な物」とみなし、

全部排除してしまおう、というのは、

心や魂の健康を、大きく損なう事になるのではないでしょうか?

 

実際、ビーガンの人も、肉食を好む人も、皆等しく栄養不足です。

(ビーガンの人が、血液が綺麗になった気がする、と度々言われているのは、

極端な食事習慣のせいで、血中の鉄や赤血球などが失われ、

血液がスカスカになったのを、綺麗になったと錯覚しているだけでは…と、

密かに思っています。)

 

食べにくい、苦い経験を上手に消化して、栄養源にしてこそ、

心や魂が成長していくのだと、私は思います。

 

 

 

生に対しての欲求が強い・弱いはあったとしても、

生きる事そのものには、人間が考える程には大した意味はなく、

人類は人類が思う程には、愚かではなく、

また、人類が多大な期待を寄せる程には、賢い生き物でもないのかも、

と、最近特に強く思います。

 

ですから、極端な事を言えば、虫や草木を食べてでも、

生存する事を選ぶのか、そんな物を食べるくらいならと、

死を選ぶのか、そこには尊厳や意志などという、

崇高なものは、実は何も存在せず、

ただ、個人が思ったような行動を取っただけに過ぎないのかもしれません。

 

ですから、プライドや意地というものは、在るように思うだけで、

別にそんなものは何もなく、ただ、人の営みがそこにあるだけならば、

辛い事や苦しい事が起こった時に、

「何故、自分にこんなに辛くて苦しい事が」と、

神様にすがったり、嘆いたりして、自分の魂を成長させずにおくのか、

それとも、どんな事でもちゃんと食べて消化して、栄養にしてやろう、

と積極的に取り組んでいくのかは、単純な個人の好き嫌いや、

生きる事に対して楽しもうとするかそうでないかの違いなのでは?と、

満員電車に揺られながら、そんな事を思いました。