なんでもよし。

最早、何でも良い。

祖父の生き様から学ぶ、ありのままのワタシ。

こんにちは、Space-radです。

 

最近、立て続けに、自分の算命学の命式や主星について、

「私の!命式はッ!こうなので!このような!天命をッ!生きねばならぬッ!!」

と、すごく力説している方を、数名お見受け致しました。

 

確かに、自分の命式を知ったことで、私自身楽になった部分もあるのですが、

別にそこまでギチギチに型にはめて、難しく考える必要はないのかもしれない、

と、ふと思いました。

 

 

 

亡くなった私の(母方の)祖父は、大変マイペースな人でした。

そんな祖父を母はいつも、

「おじいちゃんは自分の事しか考えてない!」と怒り、

祖父は祖父で、

「お前は何を言っとるんだ?本当にしょうがないやつだな」

と苦笑しながら、聞き流していました。

 

大正生まれの人だったのですが、この世代の生まれの人にしては珍しく、

掃除や簡単な調理を嫌がらず、割と自分で何でもやる人でした。

 

この祖父の最も優れた美点は、他人の噂話や愚痴をほとんどしない、

という所でした。

「言わないようにしてる」というより、「いちいち覚えてない」と

言った方が正しいです。

 

祖父が文句を言うのは、

たいてい、自分が贔屓にしている野球チームや力士が負けたとか、

国会中継がバカバカしい、とかそんな事でした。

 

この祖父の生き方が、最近流行している「ありのままのワタシ」を

そのまま体現していたように思うのです。

 

 

 

とにもかくにも飄々としているような人でした。

 

他人が何を言おうがどこ吹く風。

嫌な事があっても、というか、

そもそもこの人には嫌な事なんてあるんだろうか?

という感じの人でした。

 

恐らくですが、祖父は嫌な事があった時、意図的にその出来事から、

心理的に距離を置く、という事ができる人だったんじゃないかな?

と思うのです。

 

何というか、

「対人関係の嫌な事?はあ?しょうもな」という感じでした。

 

ですから、祖父の事をすごく良く言う人はいませんでしたが、

代わりに悪く言う人も皆無でした。

 

 

 

最近、そういう祖父の生き様を思い出していて、

天命とか道理とか論理とか、そういう枠組みだけにハマって生きてても、

仕方がないと思ったんです。

 

この「人生という理解不能なものに、いちいち大きく期待(反応)しない」

というのが、祖父の一貫したテーマだったのかな、と感じました。

 

 

 

ありのままの自分を受け入れるにしても、全身に力を一杯に入れて、

「自分を受け入れよう!」と、外に向かって宣言する必要はなく、

たとえば、お風呂に入ってボーッとしていたり、

お茶を飲みながら、何も考えずに外の風景を眺めていたり、

寝る前にうつらうつらしている瞬間に、

ぱっと閃いて、はっとした時に「本当にその通りだなあ」と、

しみじみとお腹に落ちてくる感じこそが、

「ありのままのワタシ」ではないかと思うのです。