なんでもよし。

最早、何でも良い。

年を取ってからの在り方

こんにちは、Space-radです。

 

数日間、多忙だったため、ブログの更新ができませんでしたが、

今日やっと更新できました。

 

内容は年を取ってからの在り方です。

今の職場には、70代手前の看護師さんが数名いるのですが、

その人たちと若い介護士さんたちとのやり取りを見て、

私が感じたことを率直に書いていきます。

 

 

 

 

年を取ると、今まで磨いてきたスキルや知識を維持するのが厳しくなってくる、

というのを、70代手前の人達を見ていて強く感じた。

50代くらいまでは何とかなっても、60代になると各段に能力が落ち始める。

 

若い内は、仕事ができ、有能であれば、

周りが認めてくれ、自分の居場所も確保できた。

しかし、年齢とともに認知機能の衰え(物忘れ)、目が見えない、

手先の細かい作業ができなくなってくる、反射神経が鈍るなどの症状が出始める。

何かを要求されても、すぐに反応できない。

 

若いころ有能だった人は、知識やスキル、能力に頼り過ぎる傾向が強く、

老化と共にその能力が失われると、老害になりやすいのかもしれない。

 

有能であるが故に、周りの人間に強気な発言をしても受け入れてもらいやすい。

実績を出しているため、根拠がなくとも言い分が通りやすい。

体力さえあれば、がむしゃらにやることで強引に実績を作ることもできる。

 

しかし、年齢とともに能力や実績が衰えてくると、

最後に残るのは人柄や人徳ではないか?

どんな人に対しても、頭を下げる、挨拶をする、感謝ができる、

その基本的な部分が評価対象になるのではないか?

 

能力に頼り過ぎる(結果に依存しすぎる人)は、

自分から人間関係を作ることができない。

「有能な人」という理由で、周囲が全て合わせてくれる。

自分に合わせられない人を、「無能」とレッテル貼りすることもできる。

 

20代くらいの若いころにスキルや知識を磨かず、

勢いに任せてやって来た人は知識を深く掘らないので、

浅い知識だけで終わってしまう。

知識が知恵の結晶にならない。

 

あらゆる分野で様々な研究が日々行われ、知識はどんどん刷新される。

20年前のことは今の時代にそぐわないし、

今現在の常識が20年後に通用するという保障はない。

色々な発見があり、様々な事柄があらゆる場面において書き換えられていく。

この世界はとどまることなく変化していく。

 

自分が若いときに習得したものをずっと大事に持って、

これが全てで一番大切、と持ち続けるのは非常に危険。

習得した知識やスキルを、深堀り(ブラッシュアップ)しなければ、

知識は知識のままで終わる。

深堀りするということは、新たな知識やスキルを追い求めることではなく、

なぜこうなっているのか?どうしてこうなったのか?など、

物事の仕組みを自分なりに分析し、納得することが大事。

 

勢いと上辺だけでやってきた人は、

年を取ってから「私達の時代はこうだった」としか言えなくなる。

しかし、深堀りをして自分なりの考えをもっている人は、

他人の考えに耳を傾け、興味を持ち、更に自分の世界を広げることができる。

それができない人は、残っていかないのではないか?

 

上の立場になるなら、人を受け止める器を大きくし、

自分の知識を知恵に結晶化していかないと、誰もついてこない。

かつての勢いは色褪せ、老化していく。

「自分はこうだったから」と言っても、説得力がない。

若い人には若い人なりの考え方があるということを、理解できない。

 

自分の世界を創ると同時に他人の世界を認めることは、

自分と他人の間に程よい距離感を作れる。

 

仮に「ありがとう」という言葉を言ったとしても、

そこに心がこもっていなければ、相手もそれを感じ取る。

この人には気持ちをこめても返ってこないのだ、と相手が悟ると、

相手も自分に気持ちをこめなくなり、上辺だけの関係性になる。

コミュニケーションは言葉のやり取りや表情だけではなく、

その場の雰囲気も大きく関係している。

 

気持ちをこめたコミュニケーションを他者と取れなかった人たちは、

年を取ってから若い人たちの意見を聞けず、苦労するのではないか。

気持ちをこめるというのは、単に感傷的になってべたべた付き合うことではない。

コミュニケーションや他者との関係性で悩まなかった人は、

本当に幸福な人生といえるだろうか?