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スピリチュアル系は右か左か?

こんにちは、Space-radです。

 

心屋氏と子宮系と呼ばれる団体が、既に瓦解状態になって

1年以上は経とうとしています。

しかし、それにも関わらず、相変わらず心屋氏や子宮系の一派を

せっせと叩き続けているブログもあります。

 

上記団体から何らかの被害を被った方々ならまだ理解できるのですが、

どうして彼らは、そんなに大嫌いな人たちを

長時間監視し続けることができるのでしょうか?

 

私は、心屋氏一派を擁護するつもりはありませんが、

特に彼らから直接的な被害を受けているわけでもないのに、

執拗に叩き続けている人たちの言動がものすごく気になってしまいました。

 

殊に私が非常に大きな違和感を抱いたブログの1つは、

心屋氏や子宮系を執拗に叩きつつも、波動の話も結構積極的にしていました。

 

 

 

少し話が飛びますが、いわゆる「波動が高い状態」と言われると、

みなさんはどんなイメージを持ちますか?

 

私は、何となくですが「人格や人徳の高い人」かなと思っていました。

しかし、このような一連の騒動を見ていると、

どうもそれだけではないんじゃないか?という気がしてきました。

 

 

 

一般的に波動は上下するもの、と認知されているようですが、

そもそも「波動」とは何でしょうか?

 

スピリチュアル系で調べてみたのですが、エネルギーだの愛だのと、

曖昧な言葉での説明しか出てこなかったので、物理学の方で調べてみました。

 

www.wakariyasui.sakura.ne.jp

 

これを読んで、物理学における波動とは、何らかの力で物質(水や音など)を

引っ張り上げると、連鎖的にその力が波のように外へと広がっていく現象、

と私は解釈しました。

 

そうすると、波動が高いとは、この波が高くなる、ということです。

波を高くするには、最初に加える力をより大きくする必要性があります。

 

しかし、ここで問題がひとつ浮上します。

物理学では、波が高く(大きく)なると、その反動で高くなった分だけ下に下がる、

という現象が起きるのです。

 

これは、スピリチュアル的にどう捉えるのでしょうか?

 

 

 

少し、視点を変えてみましょう。

単純に「上下」だけで考えてみます。

 

たとえば、平地から6階建ての屋上へ上がる(波動を上げる)と、

目の前の風景(現実世界)は大きく変わります。

更に12階建ての屋上に上がると、もっと風景は変わって見えます。

 

しかし、目前の世界には何の変化も起きていません。

 

視座を高くすればするほど、

あそこに公園がある、あそこの道路はあの路地に繋がっている、など

多くの情報が見え、街の構造をより深く理解できます。

 

街(現実世界)の構造をより深く理解することで、

自分にとって居心地のいい住環境を造り上げることが可能になってきます。

 

今まで10分かけて駅まで行っていたのが、

ショートカットを見つけることで、通勤時間が少しだけ短くなったりします。

いつも同じ店で買い物をしていたけど、

違う店の情報が手に入り、実際に行ってみることで、

値段や質を比較することもできます。

 

波動が上がる(視点が高くなる)ことでいい事が起きる、

というのは乱暴に説明すればそういう事(選択肢が増える)になるのでしょうか。

 

 

 

さて、上がればそれだけ落ちる、というのが物理学の世界です。

地球には重力が存在するので、当たり前といえば当たり前の話なのですが。

 

視点が上がる事で様々な情報を得られるようになるのであれば、

その逆の発想で、知らなくていい事まで知る羽目になります。

 

嫌いな人が自分よりもいい家に住んでいたり、

いい人だと信じていた人が、実は裏で人を泣かせてまでたくさん稼いでいたり、

選択肢は増えたけど、似たような店が多すぎて、かえって混乱したり、と。

 

他にも色々あるかもしれません。

「悪い事象」の因果関係みたいなものも見えてくるので、

これはこれで苦しくなってくる事もあるかと思います。

 

 

 

話を元に戻します。

 

心屋氏一派とそのアンチの関係性もこの波の高低で説明がつくのではないか、

と思ったのです。

 

心屋氏と子宮系がお金を儲けようと躍起になればなるほど

(強い力が加わるほど)、そのアンチの抵抗力も大きくなります。

 

逆にアンチの加える力が大きければ大きい程、

周囲にその名前が知れ渡り、興味本位で心屋氏たちのブログを見に行く人も増え、

心屋氏と子宮系のPV数が跳ね上がります。

 

 

 

これもたとえ話になるのですが、

平地(白と黒しかない世界)で暮らしている人にとって、

見えるものは多くはありません(白黒の二択)。

 

しかし、視点を上げると、その白と黒に当たる光線の具合が変化するために、

「青味がかった黒」や「黄色味のある白」などというはっきりしない色も

見えるようになります。

 

ですが、スピリチュアル系の人々が目指しているのは、

平地(白黒)よりも更に低い

真っ白だけの一択の世界へ行こうとしているようにしか見えないのです。

 

 

 

たとえば、いわゆる極右(黒)・極左(白)といわれているものの定義は

何でしょうか?

これについても調べてみましたが、

この条件を全て満たすと極右!極左!という単純なものではないようです。

 

ja.wikipedia.org

 

そうしますと、右:60%、左:40%という人と、

右:80%、左:20%という人たちがいた場合、

当然、多く重なり合うのは右ですから、

右派として意気投合して仲良くなります。

 

しかし、より右が強い人たちは、

100%右(真っ黒)の世界へ行くことこそが高みを目指す、

という理屈になるので、右60%という中途半端な世界で生きている人の事が、

段々許せなくなってきます。

 

 

 

スピリチュアルが右か左か、というのはよく分かりませんが、

ワンネスや自由への思想なんかは、左寄りです。

 

実際、心屋氏と子宮系が掲げる「生き方」は、

「自由に生きたい」という欲求から来ています。

しかし、問題はその「自由」への根拠や哲学が曖昧で、

真に自由に生きる事の意味を己に問うのではなく、

金や権力にすがってしまったことから、大きな歪みを産む結果となりました。

 

確かに、お金や権力があればあるほど、選択肢は爆発的に増え、

あたかも自分が真の自由を手に入れたかのような錯覚を覚えます。

 

ですが、その自由がお金や権力に依存している以上は、

答えは「自由を失いたくないなら、死ぬまで走り続けろ」以外にありません。

 

 

 

スピリチュアル系が左寄りだとすると、対抗勢力はどうしても右寄りの

人になっていきます。

 

右寄りの人達を表す言葉の中には「感情」という単語がありました。

確かに、傍目でみていても右寄りの人達の怒り・恨みという感情表現は、

どこか異質なもののように感じるのです。

 

右を表すものは「感情」だけではないのですが、

ここに焦点を当てて考えてみた時、極右に近くなればなるほど、

現実から一歩引いて(視座を高くして)考える理性が、

著しく欠如する傾向になります。

 

何というか、右に寄れば寄る程、

彼らが毛嫌いしている反日ステレオタイプ的言動に似通ってくる、

という奇妙な捻じれ現象が起こってきます。

 

 

 

長文を書いた割には、着地点が見当たらず、右往左往しているのですが、

結果として何がいいたいのかというと、

 

スピリチュアル(極左・真っ白の世界)もアンチ(極右・真っ黒)も、

目指している世界観は実は同質のものであろう。

 

という事です。