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無常とは何か。

こんにちは、Space-radです。

 

何十年か振りに方丈記を読みました。

読後感は、「中学生の自分はこれを読んで、どう思ったんだろうな?」です。

 

最初から最後まで、「無常」しかなく、

さりとて作者の鴨長明は、それを嘆いてばかりでもないのです。

むしろ、そういう生活を楽しんでいます。

 

一体、「無常」とはどういう状態を指すのでしょうか?

 

やはりこれも中学生の時の事ですが、江戸時代頃の話で、

ある貧乏な男が、何の当てもなく単独で出家し、たちまち生活に困窮した、

という本を読みました。

 

 その他の古典の影響もあり、出家は金持ちがするもの、

というイメージが私の中に強く残りました。

 

源氏物語に登場するキャラクターは全員貴族です。

位の上下はあるものの、全員が何らかの資産を有しています。

平家物語で出家した熊谷直実も武将ですから、やっぱり裕福です。

 

また、鴨長明吉田兼好も裕福な家庭に生まれ、

特に兼好法師は、財テクや投資などもやっていた、と何かの本で読みました。

 

 

 

冒頭の話に戻りますが、「無常とは何なんだろうか?」という事を考えていきたいと

思います。

 

文字だけを見ると、無+常で「常に無い」という意味ですが、

これも言葉の成り立ちや意味を一から調べ直してみました。

 

・無常:あらゆるものは生滅・流転し、永遠に変わらないものはないということ。

    この世のはかないこと、特に命のはかないこと。

・常:いつまでも変わらない、いつも、日頃、普段、変わる事のない道徳、人の道。

   並、普通。とこと呼んで、永久の意の接頭語として用いることもある。

   成り立ち:神の気配を示す文字+家屋と口、頭に巻く布に紐をつけて帯に

        差し込む象形=昔、常は長と同じ読みだったため、

        当て字として長を意味し、また頭に巻く長い布から、

        長く変わらないことを意味する。

・無:ない、…がない、…しない、むなしい、軽んじる。

   成り立ち:元々「舞」という漢字と同形。「舞」は袖に飾りをつけて、

        袖を翻して舞う姿を表すが、形や物がないことを表す文字が

        なかったため、「舞(ぶ)」の下の部分を取って、

        「ない」ことを表した。

 

漢字の意味や成り立ちとしては、そのままの意味で取ってよさそうなので、

これ以上深堀りはしません。

 

では、「何が」常にない状態を指すのでしょうか?

 

 調べてみると、「世の中の一切すべてのこと」とありました。

 世の中の一切全てのことは、常に無い、という意味になります。

 

方丈記平家物語の世界観から見ると、「世の中に在る一切全てのことは、

常に同じ状態ではとどまらない」ということになります。

 

そうすると、源氏物語の世界観から見た無常と、

仏教の世界観から見た無常、英語の世界観から見た無常、

その他の色々な世界観から見た「無常」が無数にあるのではないでしょうか?

 

確かに、大雑把な「無常」の定義はあるにせよ、

細かい所は、人それぞれその人の世界観に基づいた「無常」でよいのかもしれません。

 

 

 

そもそも、言葉で全てを理解しよう、意味を捉えようというのは、

無理があります。

 

相手の言っていることを理解する、というのは、その人の考えや思いを

全て理解する、ということでしょうか。

 

しかし、果たして私達は他人のことをどのくらい理解できているのでしょうか?

「あぁ、分かるなあ。」

と共感したと感じても、見ている視点に全くのずれがない、

と言い切ることはできるのでしょうか?

 

同じものを見て・感じているつもりで、実はそうではないかもしれません。

 

 

 

以前、認知症を日本で一番最初に診た医師の著書に、

このような言葉がありました。

「老いも若きも、認知症ではない人間は誰一人としていない。」

 

意外に感じますか?

そもそも、「認知」って何でしょうか?

 

文字通りに解釈すれば、ある対象を認め知覚することです。

 

私達は、普段の生活において、この認知を何回も繰り返して生きています。

スーパーに買い物に行けば、陳列してある商品を「認知」し、

値段や量・質、消費期限などを「認知」し、購入するかどうかを判断します。

 

しかし、ある人には認知できる事柄が、別の人には認知できない、

という現象も頻繁に起きています。

 

たとえば、複数人で同じ映画を見て、みんなが全く同じ場面を「認知」し、

感動するかというと、決してそうとは限りません。

 

人によって、見る・聞く・認知する角度が異なるので、

似たような見方・聞こえ方・認知をすることはあっても、

何から何まで全く一緒、ということはあり得ません。

 

それが「個性」といわれているものの、一端を担うのだと思うのです。

 

世間一般でいわれている「認知症」とは、この世界に存在しているものへの、

認知できる領域が極度に狭くなるか、またはできなくなるか、という事だけです。

 

 

 

「象」という動物がいて、大きな耳を「認知」する人もいれば、

長い鼻を「認知」する人もいます。

 

若い内は耳や鼻、太い足など複数の部分を「認知」できていたけれど、

年老いてくると、その認知領域が極端に狭くなってしまいます。

また、人によっては、年齢に関係なく認知に歪みを抱えている人もおられます。

 

けれども、「象」の全体全てを正しく認知できる人は、この世にいないのです。

もし、それができる存在があるとすれば、私はそれを「神」と呼ぶでしょう。

 

 

 

スピリチュアル業界においても、同じことがいえるのではないでしょうか?

 

普通の人は、せいぜい1つの事しか認知できない、

でも、2つ認知することができる人がいたとしたら、

それは、周囲から見ればすごい人です。

 

しかし、Aさんは象の鼻と耳が認知でき、

Bさんは象の足とごつごつした皮膚を認知できたとしたら、

どうなるでしょうか?

 

どちらかが間違っている!という争いに発展するケースはありますよね。

既に世界では、この認知の解釈の違いで、悲惨な戦争を繰り返しています。

 

ですから、スピリチュアル業界に限らず、

人間関係の間で、何らかの争いが起きるのは、

お互いの認知のずれが大きいことによる摩擦なのかもしれません。

 

 

 

しかし、世の中は無常です。

 

今日、「Aだ」と認知したものが、翌日も同じように「Aだ」と

認知できるとは限りません。

 

今日土に植えた物は「種」だと認知しても、

明日には「芽」だと認知し、その数日後には「花」だと認知し、

更にその数日後には「実」だと認知し、最後にはまた「種」だと認知します。

 

そのように、外側の世界はどんどん変化し続けていくため、

その刺激を受けた私達も、内面はどんどん変化していきます。

 

ですから人間は、過去の辛く・苦しい経験を笑い飛ばすことができるのです。

世の中というのは、つくづく精巧にできているなあ、と感じます。

 

 

 

さて、それでは、

他人の全てを理解することができなければ、理解しようと努力することは

すべて無駄でしょうか?

 

少しだけしか分かってもらえないなら、言葉は無用の長物でしょうか?

 

先程も述べましたが、人間は一人ひとり、見え方・聞こえ方・認知の仕方が

異なります。

そうすると、「相手に正しく伝える」ことを目的にすると、

何だかおかしなことになってきます。

 

「教える者」と「教えられる者」という上下の関係性ができあがります。

それが好きな人は、別にそれでも構わないと思います。

 

しかし、「正しく伝えて、正しく受け取らなけばならない」ので、

双方ともにかかるストレスは大きくなってしまいます。

 

 

 

そもそも、「正しい」と思うことも、人それぞれ違うのです。

何故なら、誰一人として同じ見え方・聞こえ方・認知ができる人はいないのですから。

 

 

 

どうせ無常であるならば、世の中の常識や価値観もまた、

流れて変化していくものなのです。

 

人生も生き方も無常です。